伝記
ジュール・グレヴィ(フランソワ・ポール・ジュール・グレヴィ)は、1807年8月15日、フランス東部ジュラ県のモン=スー=ヴォードレで生まれた弁護士・政治家で、第三共和政の第4代大統領を務めた。共和主義の信念をもつ大地主の家に生まれ、父はフランス革命に身を投じた人物だった。弟にアルベール、ポールがいる。ドールのコレージュで学んだが、16歳のとき学校がイエズス会の手に渡ったため、共和派の父が退学させ、イエズス会ではない司祭が率いる評判のよいポリニーのコレージュに入れた。文学、とくにヴォルテールに熱中する優秀な生徒で、多くの賞を受けた。ブザンソンで学んだのち、パリの法学校で学位を得た。
七月革命の少し前にパリへ出て、カフェ・ド・ラ・レジャンスに通い、詩人ミュッセと親しくなった。弁護士になったが、収入の面では出発が苦しく、1836年には個人向けの手続き法の手引きである『手続きの人』を出版して収入の足しにした。1837年にパリの王立裁判所の弁護士実習生となり、翌年には弁護士会の討論会の書記になった。七月王政の下では共和派の弁護士として活躍し、共和主義者の政治犯の弁護人として名を上げた。コラリー・フレスと結婚し、一人娘アリスをもうけた。
1848年の二月革命後、ジュラ県への共和政府派遣委員となり、同県選出の憲法制定議会の議員を経て、立法議会では副議長となった。行政権の権限は小さくあるべきだと考え、大統領を普通選挙で選ぶことに反対する修正案を提出し、報道の自由を擁護して戒厳令に反対票を投じた。1851年にルイ=ナポレオンのクーデターに反対して失脚し、パリのマザス監獄に収容された。以後十数年は政界を離れて弁護士業に専念し、パリ弁護士会の会長も務めた。第二帝政末期の1868年にジュラ県から議員に選ばれて政界に復帰し、ガンベッタ、ティエールと並ぶ共和派の重鎮となった。国民議会の議長(1871年~1873年)、下院議長(1876年~1879年)を歴任した。
1879年1月、上院の改選で共和派が圧勝し、王党派のマクマオン大統領が退陣すると、第4代大統領に就任した。この就任と内閣の発足によって、議会が大統領に優越する第三共和政の統治システムがようやく定着した。就任中は穏健共和派のジュール・フェリーらを中心に、経済危機や右派の興隆をしのぎながら諸政策を進めた。外交では普仏戦争以来のドイツ帝国との摩擦を避け、平和の安定に尽力した。内政では「ラ・マルセイエーズ」を国歌に定め、7月14日を国民祝祭日とし、1880年の同日にパリ・コミューンで処罰された人々に大赦を与えた。反教権主義にもとづく教育改革も進み、初等教育の無償・義務・世俗化の原則や、女子中等教育の世俗化、セーヴル女子高等師範学校の開設が実現した。
1885年に再選されたが、2年後の1887年、ブーランジェ運動のさなかに、女婿ウィルソンをめぐる勲章疑獄が発覚した。クレマンソーらに追及され、ルーヴィエ内閣の総辞職とともに辞任を余儀なくされた。最初の7年の任期は全うし、その政権運営の手腕は後年まで大統領職の規範となった。1891年9月9日に生地で没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・オスマン (1891年没)
- ジョルジュ・スーラ (1891年没)
- アルチュール・ランボー (1891年没)
- チャールズ・スチュワート・パーネル (1891年没)
- Jose Maria Urbina (1891年没)
同じ地域に関係する人物
- リュシアン・フェーヴル (1956年没)
- ビクトル・ピュイズー (1883年没)
- ベアトリス1世 (ブルゴーニュ女伯) (1184年没)
- ステファン・ピション (1933年没)