伝記
ウィリアム・テカムセ・シャーマンは、1820年2月8日、オハイオ州ランカスターで生まれたアメリカ合衆国の軍人である。ミドルネームのテカムセは、19世紀初頭にアメリカと戦ったショーニー族の酋長にちなむ。父チャールズ・ロバートは成功した弁護士でオハイオ州最高裁の判事でもあったが、1829年に突然亡くなり、母メアリー・ホイトは11人の子を抱えて、遺産もなく残された。9歳のウィリアムは、近所に住む家族の友人で、のちに上院議員や内務長官を務めたトマス・ユーイングの家に引き取られた。このとき、より「キリスト教的」な名前としてウィリアムの名を与えられたという。読書家で、フランス語とラテン語を学び、古典ギリシャ語も少し身につけた。ユーイングの影響で、憲法や秩序、連邦への敬意を身につけたとされる。
1836年、16歳でウェストポイントに入学した。絵画に才能があって成績は優秀だったが、細かな規律違反の罰が積み重なり、工兵科には進めなかった。1840年に6位の成績で卒業して砲兵少尉となり、フロリダで実戦を経験した。フロリダで先住民の遊撃戦に直面して、直接の追撃は効果がなく、部族の生活基盤を狙うのが唯一の方法だと見て取ったことは、のちの戦争のやり方に影響したと見られる。米墨戦争ではカリフォルニアで後方支援の事務を担当し、大尉に昇格した。1850年にユーイングの娘と結婚し、1853年にいったん軍を退いてサンフランシスコで銀行を経営したが、事故や経営の失敗で病気になった。1857年に銀行が倒産するとカンザスに移って法律家として再起を図ったが失敗した。1859年にルイジアナ州の新設の州立軍学校の学長となり、のちのルイジアナ州立大学の初代学長とされる。1861年に南部が独立を宣言すると、連邦軍施設の接収を知事に命じられたが拒み、学長を辞した。
南北戦争では、友人の多くが南部の将軍になるなか、1861年5月に北軍の第13歩兵連隊の大佐に就いた。7月の第一次ブルランの戦いでは、北軍が総崩れになるなか軽傷を負いながら善戦し、リンカーン大統領に准将に昇進させられた。ケンタッキーでは過労とストレスで一時的に精神に異常を来たし、静養を余儀なくされたが、1862年4月のシャイローの戦いではグラント配下の師団長として、負傷しつつも師団を指揮した。この功績で少将に昇格した。ストレスに弱いシャーマンと、アルコール依存症であったグラントは、互いに支え合い、深い信頼関係を築いたとされる。1864年にグラントが総司令官となると西部の総司令官に昇格し、アトランタを攻略して、占領後は焼き払った。11月には「海への進軍」を始め、ジョージア州の肥沃な地帯を焦土と化し、鉄道や通信を破壊した。24日後の12月21日にサバナも陥落した。1865年には北上してサウスカロライナ州を徹底的に破壊し、コロンビアは焼き払われた。リーがグラントに降伏し、ジョンストンも降伏して、南北戦争は終結した。
戦後は1866年に中将、1869年にはグラントの後任として大将、陸軍総司令官となり、1883年に引退するまで14年間、その任にあった。残虐な印象があるが、実は嫌戦家で、「戦争は地獄だ」という言葉で知られる。1891年2月14日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ヨンキント (1891年没)
- Konstantinos Paparrigopoulos (1891年没)
- デイビッド・ディクソン・ポーター (1891年没)
- チャールズ・スチュワート・パーネル (1891年没)
- 三条実美 (1891年没)
同じ地域に関係する人物
- ラングストン・ヒューズ (1967年没)
- スーザン・ソンタグ (2004年没)
- トマス・M・ディッシュ (2008年没)
- バルトーク・ベーラ (1945年没)
- サビーカス (1990年没)