HISTORICAL PERSON · 991年没

平兼盛

平安中期の貴族・歌人で三十六歌仙の一人。天徳内裏歌合で壬生忠見と競い、百人一首にも採られた「しのぶれど」の歌が有名。勅撰集に約90首が入り、赤染衛門の実父とされる逸話がある。

生涯
991年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

平兼盛は、平安時代中期の貴族・歌人である。臣籍降下する前は兼盛王と称した。光孝平氏の出で、官位は従五位上・駿河守に至り、三十六歌仙の一人に数えられる。生年は伝わらない。

父については説が分かれる。『尊卑分脈』は、光孝天皇の玄孫として、光孝天皇、是忠親王、興我王、平篤行、兼盛という系譜を示す。しかし、興我王は貞観2年(860年)に従五位下に叙爵されており、天安元年(857年)生まれの是忠親王の子とは考えにくい。また兼盛ははじめ諸王だったので、仁和2年(886年)に平朝臣を与えられて臣籍降下した平篤行の子ともできない。そこで、光孝天皇、是忠親王、篤望王、兼盛という復元系譜が示されている。兼盛王は「仁和御後」として王氏爵で従五位下を受けており、光孝天皇の曾孫にあたる三世王と考えられること、『兼盛集』の奥書に「筑前守篤望王三男」とあること、篤望王に朱雀朝(930年代)の活動記録があって年代的にも矛盾しないことが根拠である。

若いころは大学寮で紀伝道を学び、寮試に及第して擬文章生となった。天慶9年(946年)、村上天皇の即位に際して王氏爵にあずかるべき諸王がおらず、兼盛王が従五位下に叙爵された。天暦4年(950年)に平朝臣姓を与えられて臣籍降下し、越前権守に任ぜられた。応和元年(961年)には山城介と、地方官を務めた。応和3年(964年)に大監物として京官に復し、康保3年(966年)に従五位上に叙せられた。円融朝の天元2年(977年)、駿河守に任ぜられて再び地方官に転じた。正暦元年(991年)12月28日に亡くなった。最終官位は前駿河守従五位上である。

歌人としては『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』における代表的な一人で、『後撰和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首が採録されている。家集に『兼盛集』がある。歌風は、一首一首を深く考えて作るものでありながら難解にならず、比較的わかりやすい素直な表現の歌が多い。歌合や歌会、屏風歌の有力歌人としても知られ、生前から様々な挿話や逸話の主人公として語られた。なかでも有名なのは、『天徳内裏歌合』における壬生忠見との対決である。このときの「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで」の歌は、百人一首にも採られている。伝えによると、この歌合に敗れた忠見は、悔しさのあまり亡くなったともいわれる。

私生活にも逸話がある。兼盛が妻と離婚した際、妻はすでに妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘を産んだ。兼盛は娘の親権を主張して裁判で争ったが、認められなかったと伝わる。この娘が赤染衛門として大江匡衡に嫁ぎ、その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れている。赤染衛門は、養父である赤染時用の娘とされるのが普通だが、兼盛が実の父だったとする説がある。

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