伝記
円融天皇は、日本の第64代天皇である。天徳3年(959年)に生まれ、在位は安和2年(969年)8月から永観2年(984年)8月まで。諱は守平。村上天皇の第5皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘で中宮の安子、冷泉天皇の同母弟にあたる。冷泉天皇と為平親王の2人の同母兄、4人の同母姉妹がいた。
応和4年(964年)、幼くして母の安子を亡くした。以後は安子の妹で重明親王の妻だった藤原登子に育てられ、中宮権大夫を務めていた安子の兄・藤原兼通に、資子ら他の兄弟とともに庇護された。兄の冷泉天皇が即位すると、立太子をめぐって藤原氏と左大臣源高明が対立し、康保4年(967年)9月、藤原氏の主張が通って9歳の守平親王が皇嗣となった。対立は安和の変をもたらして源高明が失脚し、高明の娘を妃にしていた為平親王の立場は宙に浮いた。その5か月後に冷泉天皇が譲位し、守平親王が即位した。即位後すぐに、親密だった同母姉の資子内親王を一品准三宮とした。
数え11歳の幼帝のため、大伯父の太政大臣藤原実頼が摂政となり、天禄元年(970年)に実頼が没すると、外舅の藤原伊尹が引き継いだ。天禄3年(972年)に元服したが、その直後に伊尹が在職1年あまりで亡くなり、弟の兼通と兼家が関白の座を激しく争った。天皇は亡き母安子の遺訓に従い、兼通を関白に任じた。当初の円融天皇は、兄の冷泉上皇の子が成長するまでの中継ぎとみなされており、伊尹も兼家も娘を入内させる考えはなかった。そのなかで、安子の子らの面倒を見続けた兼通が唯一の後見として浮上し、兼通の娘の媓子が入内して中宮となった。貞元2年(977年)に兼通が重病になると、その要望で外戚関係のない藤原頼忠が後任となった。兼家は冷泉上皇には娘の超子を入内させていたのに円融には入内させておらず、天皇が頼忠に好意を抱いていたとする見方もある。
その後、兼家は天元元年(978年)に次女の詮子を入内させた。天元3年(980年)、女御となった詮子は、天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(のちの一条天皇)を産んだ。中宮媓子が没して空席となっていた中宮に、天皇は天元5年(982年)になって頼忠の娘の遵子を立てたが、遵子に子はなく、「素腹の后」とあだ名された。これに怒った兼家は、詮子と懐仁親王を自邸に連れ帰って出仕をやめた。天皇も2度の内裏焼失の際に兼家への依存を拒み、頼忠邸や兼通の旧邸の堀河殿を里内裏とした。やがて天皇は譲歩し、永観2年(984年)、懐仁親王の立太子と引き換えに、冷泉天皇の皇子の師貞親王(花山天皇)へ譲位して太上天皇となった。
上皇となってからは、詩歌管絃を楽しみ、石清水八幡宮、石山寺、南都の諸寺に参詣した。寛和元年(985年)2月には紫野で盛大な「子の日の御遊」を催し、平兼盛、大中臣能宣、清原元輔、源重之、紀時文ら当代の著名な歌人に和歌を詠ませた。曽禰好忠が召されもしないのに粗末な狩衣姿で押しかけ、追い出されたという『今昔物語集』の話は、この時のことである。同年8月に大僧正寛朝から受戒して出家し、以後は勅願寺の円融寺に住んだ。寛和の変で一条天皇が立つと、幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれ、摂政の兼家と意見が対立することもあった。このことは、院別当として円融の篤い信頼を得た藤原実資の『小右記』からわかる。正暦2年(991年)、円融寺で33歳の生涯を閉じた。火葬ののち遺骨は父村上天皇陵の傍らに納められ、龍安寺裏の朱山には円融院火葬塚が残る。和歌を好み、『拾遺集』以下の勅撰集に24首が入集し、『円融院御集』も伝わる。