伝記
ランツェリンは、10世紀の南西ドイツからスイスにかけて所領を持った貴族で、のちのハプスブルク家の遠い祖先にあたる人物である。カンツェリンやランドルトの名でも呼ばれ、940年ごろに生まれ、991年に没したとされる。ただし正確な名は分かっておらず、ランドルトと同一人物かどうかも確実ではない。さらに同時代の史料には、父とされるグントラムとの親子関係が明記されていないともいわれる。
家系はエーベルハルト家の出で、フランク系の名門エティコ家の一枝にあたるとされ、祖先にはエルザス公エティコがいた。父とされるグントラム金満公は、きわめて有力な貴族で、父や祖父をはじめ一族はエルザスとスイスに広大な土地を持っていた。しかし952年、皇帝オットー1世が、反逆を理由に、ブライスガウ、トゥールガウ、下ライン地方の所領とエルザスの伯領を没収したとされる。理由ははっきりと記されておらず、急速に勢力を伸ばす彼への口実だったのではないかとも考えられている。グントラムの兄弟たちはリュールの修道院を保持することを許され、エルザス伯の地位は、ランツェリンの従兄弟アーダルベルト2世が得た。グントラムは973年に没し、ランツェリンの手にはわずかな領地だけが残ったという。
その中心がアルテンベルク伯領で、ほかにムーリ伯領も受け継いだ。ランツェリン自身はアルテンベルク伯を称した。その名の由来となった城は、現在のアールガウ州のブルック付近、のちに息子が築くハビヒツブルク城からほど遠くないアルテンベルクとする説と、クレットガウのアルテンベルクとする説がある。後者の説には、ランツェリンがクレットガウ伯やトゥールガウ伯の称号も帯びていたという理由がある。彼はアールガウに勢力を広げ、現在のアールガウを強引に征服したともいわれる。妻はトゥールガウ伯エーベルハルト3世の娘で、ルイトガルト、リウトガルト、あるいはネレンブルクのリュートガルトなどと記される。所領の一部は、この妻から受け継いだものだろうと推測されている。
子には男子が4人いたとされる。ヴェルナー1世は1002年から1028年までストラスブール司教を務め、1028年10月28日にコンスタンティノープルで没した。ラートボトは985年ごろの生まれで、クレットガウ伯となり、ハビヒツブルク城を建てて、のちのハプスブルク家の祖となった。ルドルフ1世は、オットマールスハイム修道院を設立した。ランドルト2世は、ライヒェナウ修道院の管理者を務め、ブーレンのベルタを妻とし、1027年に没した。のちのツェーリンゲン家の祖先につながる人物でもある。娘にイタがいたともされる。ラートボトの生年を970年とする記述もある。グントラムが本当に父であれば、ランツェリンは現在のイギリスやデンマーク、ベルギー、オランダの王やリヒテンシュタイン侯の祖先にもあたるといい、グントラムにちなんでニーダーエスターライヒのグントラムスドルフという町の名が付けられた。ただしヴェルナーはランツェリンの子ではなく娘婿だった可能性を指摘する説もある。
ランツェリンは991年、一説には8月に没した。その後の所領は、ラートボトが受け継いだとされる。ハビヒツブルク城に由来するハプスブルクの名は、のちに王朝の名となった。なお、カンツェリンとランツェリンという名の揺れは、史料がドイツ語やラテン語などさまざまな言語と方言で書かれたことによるものと説明される。
同じ年に亡くなった人物
- テオファヌ (991年没)
- 円融天皇 (991年没)
- バルダス・スケレロス (991年)
- エルフギフ (991年没)
- 平兼盛 (991年没)
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