伝記
ターイーは、アッバース朝の第24代カリフ(在位974年-991年)である。本名をアブー・バクル・アブド・アル=カリームといい、932年に生まれ、1003年に没した。生年は929年とも伝えられる。シーア派のブワイフ朝がイラクを支配した時代のカリフであり、ブワイフ朝の首長たちのもとで実権を持たない名目上の君主であったと一般にみなされている。
父は第23代カリフのムティーで、母は女奴隷のハザールとも、ギリシア系の側室ウトブともいわれる。ムティーはカリフ・ムクタディルの子ファドルの子であり、946年にブワイフ朝がバグダードを占領したのち即位した。ブワイフ朝はみずからシーア派でありながら、他のイスラム君主に対する正統性を得るため、都合よくアッバース朝のカリフを残した。ムティーは首長ムイッズ・ウッダウラの完全な傀儡であったが、その従属は王位の安定をもたらし、先代たちと違って長く在位し、対立候補もほとんど現れなかった。成人したターイーの顔には天然痘の跡があり、鼻が大きくて、同時代の人々の風刺の的となった。
974年8月1日、トルコ系の将軍サブクテギンがブワイフ朝のイッズ・ウッダウラからバグダードの支配を奪った。ムティーは病を口実に退位へ導かれ、最年長の子であるターイーが8月5日にカリフとなった。43歳であった。カリフ位の父子相続は、902年のムクタフィー以来のことである。サブクテギンはただちに大首長に任じられ、ターイーとムティーを伴ってワーシトへ進軍したが、途中で没し、アルプテギンが後を継いだ。トルコ軍は975年1月にディヤーラー川付近で敗れて撤退し、ブワイフ朝がバグダードに入った。ファールスを治めるアドゥド・ウッダウラは、野心からイッズ・ウッダウラと争い、のちに攻め滅ぼした。ターイーはトルコ人の支配下でどのような立場にあったか定かでないが、イッズ・ウッダウラに過失を責める手紙を送りながら、のちには彼らに従うふりをしていただけだと公言した。
ターイーは、最初にアドゥド・ウッダウラに会ったときは組み易しと見て高飛車に接したが、二か月で完全に屈服させられたという。アドゥド・ウッダウラは農業生産の高いファールスと肥沃なイラクを統一し、ムイッズ・ウッダウラの死以来混乱していたイラクの統治を安定させて、ブワイフ朝の最盛期をもたらした。ただ統治のためにはカリフの権威が必要であった。980年にファーティマ朝の使節が訪れたときには、アドゥド・ウッダウラはうやうやしくカリフに仕える姿を見せた。しかし翌年、遠征から戻ると、カリフに出迎えさせた。ターイーはイッズ・ウッダウラとアドゥド・ウッダウラ、それぞれの娘と結婚させられてもいる。
983年にアドゥド・ウッダウラが死ぬと、その息子たちが入れ替わってイラクを統治した。991年、ブワイフ朝のバハー・ウッダウラの近臣の一人を投獄したことが怒りを買い、ターイーは宮殿から連れ去られた。11月22日、本人不在のまま退位させられ、従兄弟のカーディルが代わって即位した。しかし新しい宮殿に迎えられて丁重な待遇を受け、わがままを言いながらも、1003年8月3日に大往生を遂げた。実権のない君主とされる一方、歴史家ヘリベルト・ブッセは、六度もの政権交代があった動乱の十六年間、地位を保ち続けた点に、政治的な機敏さと柔軟さがあったと評価している。金曜礼拝をしばしば司り、宮殿の門の再建も手がけたこと以外、活動はほとんど知られていない。
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