伝記
ベアトリクス・フォン・フランツィーンは、10世紀の上ロートリンゲン公妃である。938年ごろに生まれ、1003年9月23日に没した(1005年とする説もある)。フランス語名はベアトリス・ド・フランス、またはベアトリス・ド・パリという。959年から978年まで上ロートリンゲン公でありバル伯であったフリードリヒ1世の妃となり、夫の死後は息子の摂政として公国の運営に関わった。
父はフランス公ユーグ大公、母はその三人目の妃で、ドイツ王ハインリヒ1世の王女エドヴィジュ(ハトヴィヒ・フォン・ザクセン)である。母は神聖ローマ皇帝オットー1世の妹であることが、修道僧ラウル・グラベルの年代記で証明されている。ベアトリクスはその第一子で長女にあたり、のちフランス王となるユーグ・カペーとブルゴーニュ公アンリ1世の姉である。祖父母は西フランク王ロベール1世とベアトリス・ド・ヴェルマンドワで、後者を通じてカール大帝の来孫にあたる。誕生のころ、父ユーグはフランスで最有力の貴族であり、アキテーヌ公にもなった。死去する数週間前の956年には、どうにかブルゴーニュの統治権も手に入れ、ブルゴーニュ公となった。
951年、ベアトリクスはビドガウ伯ヴィゲリックの息子で、のちの上ロートリンゲン公フリードリヒ1世と婚約した。結婚の時期は、記録家フロドアルドによれば954年の秋とされ、9月10日とも11月12日ともいわれる。夫はメッツ司教アダルベロン1世の兄弟にあたる。10世紀の中ごろ、夫はオットー1世からバル伯の称号を得て、ベアトリクスの持参金であった土地に城を築き、バルの町を中心とする領地を得た。959年には、ロートリンゲン公国を上下の二つに分けたケルン大司教ブルーノによって、上ロートリンゲンに封じられた。二人の子は、ハインリヒ(978年以前没)、のちメッツ司教となったアダルベロン2世(1005年没)、上ロートリンゲン公となったディートリヒ1世(962年または972年-1027年)と、娘イダである。年代記には、ディートリヒ1世とアダルベロン2世の両親がマース地方のベアトリクスとフリードリヒ1世であると記されている。
978年に夫が没すると、ベアトリクスは未亡人となった。まだ若かった三男ディートリヒが母の庇護のもとで父の跡を継ぎ、バル伯とロレーヌ公の称号を得た。このことは、彼女を「最も高貴な公妃」と記す年代記から間接的に確認される。983年にオットー2世が寄付を行ったとき、従姉にあたるベアトリクスの名が、甥のメッツ司教テオドリック1世とともに記された。984年のオットー3世の寄付でも、亡き夫とともに名が見える。摂政としての彼女は政治に積極的に加わり、ロートリンゲンをめぐって争う西フランク王ロテールとドイツ側のあいだを取り持った。985年のヴェルダン攻防戦では、実弟ユーグ・カペーと交渉し、負傷してフランス軍の捕虜となっていた息子ディートリヒを解放させた。
しかし987年、成人したディートリヒは母の政治的影響力を警戒し、ベアトリクスを修道院に幽閉した。教皇ヨハネス15世が介入して、彼女は解放された。ランス大司教アダルベロンや、のちに教皇シルウェステル2世となった学者で聖職者のオーリヤックのジェルベールとも連絡を取り合っていた。1003年にはサン=ディエ修道院を一族とともに訪れたとされ、同じ年の9月23日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ヴラジヴォイ (1003年没)
- シルウェステル2世 (ローマ教皇) (1003年没)
- ロザーラ・ディタリー (1003年没)
- ヨハネス17世 (ローマ教皇) (1003年没)
- ターイー (1003年没)
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