伝記
ヴラジヴォイは、1002年から1003年1月に亡くなるまでボヘミア公を務めた人物である。生年は定かでないが、981年ごろとも、970年ごろともいわれる。在位はごく短かったものの、ボヘミア公がドイツ王から公国を封土として受けるという新しい関係を最初に結んだ人物として知られる。
出自ははっきりしない。メルゼブルクのティートマールが、ヴラジヴォイはポーランドからボヘミアに来て、ボヘミアの公家と何らかの縁続きだったと述べていることから、ポーランドのミェシュコ1世と、ボヘミア公ボレスラフ1世の娘ドウブラフカの子、あるいは遠い親戚ではないかと推測する歴史家がいる。この説では、ピャスト家の一員だったことになり、ボレスワフ1世勇敢王の兄弟とされる。チェコの古い歴史事典も、ミェシュコとチェコ人の妻ドウブラフカの子で、ボレスワフ勇敢王の兄弟としている。一方、ポーランドの研究では、この説は1895年にオスヴァルト・バルツァーが誤りだと論証したとされる。ジェラルド・ラブダは、プシェミスル家の傍系の出か、あるいはより可能性が高いものとして、ボレスラフ2世敬虔公の弟だったと考えた。ヴラジヴォイが権力を得たとき、ドイツの君主から反対されなかったことは、プシェミスル家とのつながりを示すという。ただしチェコの歴史学では、ピャスト家の一員とする見方が今も残っている。
1002年、ボヘミアではヴルショヴツィ家の反乱が起こり、ボレスラフ3世が追放された。ポーランドに亡命していたヴラジヴォイは、4月以降に呼び戻され、貴族たちからボヘミア公に宣言された。ドゥシャン・トレシュティクは、その即位にポーランド公ボレスワフ1世の支援があったと述べている。そして11月には、ドイツ王ハインリヒ2世から、ボヘミア公国を封土として授けられた。ヴラジヴォイは、レーゲンスブルクで王に臣従の礼をとり、ボヘミア公国を封土として受けた最初のチェコの君主とされる。のちの皇帝たちは、この出来事を根拠にボヘミアへの権利を主張するようになったという。
しかしその治世は長くなかった。ティートマールは、ヴラジヴォイは法を尊ばず、酒におぼれて、1時間も飲まずにはいられなかったと伝えている。1003年1月、ヴラジヴォイは死去し、飲酒が死の一因になった可能性があるといわれる。ほかに、酒を飲み続けた末の死とする記述もある。
死後、ポーランド公ボレスワフ1世がボヘミアに侵攻し、ボレスラフ3世を復位させた。ボレスラフ3世は多くのボヘミア貴族を殺させ、ヴィシェフラドでヴルショヴツィ家の虐殺を命じた。このことがもとでボレスラフ3世は退位し、弟のヤロミールが後を継いだ。ヴラジヴォイの死後に、ヤロミールとオルドジフがボヘミアに呼び戻されたともいう。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス17世 (ローマ教皇) (1003年没)
- ナレクのグレゴリオス (1003年没)
- シルウェステル2世 (ローマ教皇) (1003年没)
- ターイー (1003年没)
- ベアトリクス・フォン・フランツィーン (1003年没)
同じ地域に関係する人物
- イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル (1609年没)
- ヨーゼフ・ビカン (2001年没)
- ソフィア・ルソワ (1940年没)
- Oldrich Lajsek (2001年没)
- クルト・ダリューゲ (1946年没)