HISTORICAL PERSON · 1004年没

オットー1世 (ケルンテン公)

ケルンテン大公。皇帝オットー3世の死後、外孫として自ら王位を主張できる立場ながら従兄弟ハインリヒの即位を支持し、自らの王位継承権を辞退した。

生涯
1004年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オットー1世は、10世紀後半から11世紀初めにかけてのケルンテン大公である。948年ごろ、あるいは950年ごろに生まれ、1004年11月4日に没した。ヴォルムスガウ伯でもあり、ヴォルムスのオットーとも、老公とも呼ばれた。ザーリアー家の出身で、ロートリンゲン大公コンラート(赤毛公)と、神聖ローマ皇帝オットー1世の娘リウトガルトとの間の子であり、一人息子だった。

幼いころに両親を失っている。母は彼が3歳、あるいは5歳のときに亡くなったとされ、父はレヒフェルトの戦いで戦死した。このとき彼は7歳だったという。子どものころから青年期にかけては、祖父である皇帝の宮廷で多くを過ごしたとされ、その祖父が973年に死ぬと、母方の叔父オットー2世が皇帝の座に就いた。成人した彼はフランケンの伯として、シュパイアーガウやヴォルムスガウなどに受け継いだ所領を治め、977年ごろにはシュパイアーの西にランブレヒト修道院を創建した。

976年、ルイトポルト家のハインリヒ1世がバイエルン大公ハインリヒ2世に味方して皇帝オットー2世に反乱を起こした(三ハインリヒの反乱)。反乱は失敗し、978年にハインリヒ1世が逮捕されると、ケルンテン大公位は皇帝の甥にあたるオットーに与えられた。ただし外から来た大公であったため、ケルンテンでの支持はほとんど得られなかったという。985年(983年とする説もある)、前バイエルン大公ハインリヒ2世が、皇帝オットー3世の母后テオファヌの摂政を認める代わりにバイエルン大公位を再び得ることになった。その結果、ルイトポルト家のハインリヒ1世が再びケルンテン大公となり、オットーは大公位を失った。代わりに、ライン上流域左岸の豊かな領地と支配権が与えられ、ラウテルンやブルフザールの城なども含まれた。この間、ヴォルムス大公と称したこともあり、ヴィッセンブルク修道院の所領の多くを自分のものにしたともいわれる。

995年、バイエルン大公兼ケルンテン大公のハインリヒ2世が死去すると、皇帝オットー3世はケルンテン大公位を再びオットーに与えた。これによりケルンテンとバイエルンの両大公領は最終的に分かれることになった。1002年に皇帝オットー3世が跡継ぎのないまま死ぬと、オットーは皇帝オットー1世の外孫として王位継承を主張し、国王候補の一人となった。しかしバイエルン大公ハインリヒ2世の子ハインリヒが王位継承を勧めた際には、自らの継承を辞退してハインリヒを支持した。新王となったハインリヒ2世は、国王選挙への支持を得るため、ヴォルムス司教ブルヒャルト2世にヴォルムス市の単独支配を約束していた。その結果、オットーは本拠地のヴォルムスを失い、代わりにブルフザールの王宮を得ることになった。同年12月には、イタリア王に即位したイヴレーア辺境伯アルドゥイーノ1世の討伐を命じられて出陣したが、敗北した。翌年には新王に従ってイタリア遠征にも加わっている。

1004年、オットーは死去し、ケルンテン大公位は三男のコンラート1世が継いだ。妻はユーディトで、ルイトポルト家のハインリヒの娘とも、バイエルン大公アルヌルフ悪公の孫娘ともされる。子のうち、ブルーノは996年にローマ教皇グレゴリウス5世となり、999年に没した。長男のハインリヒは父より先に死んだが、その子が神聖ローマ皇帝コンラート2世である。末子ヴィルヘルムはシュトラスブルク大司教となった。

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