伝記
ティボー2世は、10世紀末から11世紀初めにかけてのブロワ伯である。985年ごろ、あるいは983年ごろに生まれ、1004年7月11日に没した。ブロワ伯ウード1世と、ブルゴーニュ王コンラート3世の娘ベルト・ド・ブルゴーニュとの長男であり、弟にウード2世がいる。父方の祖父はブロワ伯ティボー1世、祖母はリウトガルド・ド・ヴェルマンドワである。
989年の寄進に関する文書には、父ウード1世や弟のウードとともに証人として名が見える。996年に父ウード1世が死ぬと、ティボーはその称号と領地を継いだ。ブロワ伯、シャトーダン伯、シャルトル伯となり、ランス伯も兼ねたとされ、プロヴァンの伯とも記される。同じ年の文書によれば、ティボーと弟のウードは、母ベルトとともに、亡き父が行ったブルグイユ修道院への寄進を確認している。若年であったため、母ベルトが摂政を務めたとされる。
母ベルトは夫の死後まもなく、フランス王ロベール2世と再婚した。ロベールは未亡人となったベルトに強く心を寄せていたが、2人が近い親族(従兄妹とされる)だったため、教皇グレゴリウス5世も、ロベールの父ユーグ・カペーも結婚を認めなかった。それでも996年にユーグ・カペーが死んでロベールが王位に就くと、数か月後にロベールはベルトと結婚した。これによりティボーはフランス王の義理の息子となった。997年、教皇は2人が別れなければ破門し、王国に聖務停止を課すと警告し、ティボーにも7年間の贖罪を科したという。
ティボーはその後、領地の統治を弟のウードに任せ、宗教の道を志したとみられる。母ベルトがマルムーティエ修道院に行った寄進の文書には、ティボーが司教として記されているという。彼は1004年、ローマからの帰途、疲労のために19歳で亡くなったと伝えられる。跡継ぎはなく、所領は弟のウード2世が継いだ。1004年の文書にはウードが伯の称号で署名し、母は王と別れた後も王妃の称号を名乗り続けているが、ティボーの名はもう見えない。遺体はシャルトルのサン・ピエール修道院に葬られたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Nilus the Younger (1004年没)
- アデライード・ダキテーヌ (1004年没)
- オットー1世 (ケルンテン公) (1004年没)
- フリュリのアッボ (1004年没)
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