HISTORICAL PERSON · 1014年没

ラージャラージャ1世

チョーラ朝の王。パーンディヤ朝やスリランカ北部を征服し南インドや インド洋の覇権を握り、タンジャーヴールに壮麗なラージャラージェーシュヴァラ寺院を建立した。

生涯
1014年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ラージャラージャ1世は、南インドのチョーラ朝の王で、985年ごろから1014年まで在位した。出生名はアルルモリ・ヴァルマンである。南インドやインド洋でチョーラ朝が覇権を握る基礎を築いた王であり、「大王」とも呼ばれる。947年11月3日ごろの生まれとされ、この日付はタミル・ナードゥ州政府が公式の誕生日として認めているものである。

父はチョーラ朝の王パラーンタカ2世(スンダラ・チョーラとも呼ばれる)、母はヴァーナヴァンである。兄に長兄アーディタ2世、姉にクンダヴァイがいた。曽祖父パラーンタカ1世の死後、王位は長子ガンダラーディティヤ、次いで弟アリンジャヤ、その子パラーンタカ2世へと移り、王位をめぐる主張が競い合う時期が続いていた。スンダラ・チョーラの後継にはマドゥランタカンが予定されたが、これはスンダラの意向によるともされ、ラージャラージャ自身の計画だった可能性も、息子ラージェーンドラ1世のティルヴァーランガードゥ銅板碑文から示唆されている。兄アーディタ2世は不審な状況で亡くなり、碑文には暗殺をうかがわせる記述がある。その後スンダラも没し、マドゥランタカンがウッタマ・チョーラの称号で即位した。ウッタマ・チョーラの死後、アルルモリ・ヴァルマンは985年半ばに即位し、「王の中の王」を意味するラージャラージャの名を名乗った。

即位時に受け継いだのは、タンジャーヴール、ティルチラーパッリ周辺を中心とする小さな王国で、ラーシュトラクータ朝の攻撃から立ち直りつつある状態だった。彼はこれを、強力な陸軍と海軍を備えた組織的な帝国へと変えていった。最初期の碑文は、988年ごろ現在のケーララにあたるカンダルール・サーライでの勝利を記念しており、彼は「カンダルール・サーライを破壊した者」と称えられる。この地はもともと、マドゥライのパーンディヤ王に仕えるアーイ族の首長の支配下にあった。ティルヴァーランガードゥ碑文は彼の将軍がヴィリンジャムを占領したと記しており、これもこの遠征の一部だった可能性がある。この戦いにはチョーラの海軍が関わったとみられる。990年代にはカニヤークマリ地方、1000年代初めにはティルヴァナンタプラム地方に碑文が現れ、ケーララの征服は11世紀初めごろとされる。1005年のセーヌール碑文は、パーンディヤ朝の都マドゥライの破壊や、コッラム、ムーシカ、コドゥンガルールの有力な支配者たちの打倒を記している。

こうして彼は、パーンディヤ朝、チェーラ朝、スリランカ北部を征服し、モルディブやラクシャドウィープ諸島にも勢力を及ぼした。北では西ガンガ朝や西チャールキヤ朝と戦い、チョーラの影響力はトゥンガバドラー川にまで達した。東岸では、ヴェンギの支配をめぐりテルグ・チョーラの王ジャタ・チョーダ・ビーマと激しく争い、戦いと同盟関係の変動が続いた。一方、北のヴェンギ王国はやがてチョーラ朝と緊密な同盟関係を結び、その影響は東海岸を北のカリンガにまで広がった。

内政や文化でも大きな事業を残した。首都タンジャーヴールにラージャラージェーシュヴァラ寺院を建立し、これは中世南インドの建築様式を代表する寺院の一つとされる。治世にはアッパル、サンバンダル、スンダラルらタミルの詩人の作品が集められてティルムライとして編纂され、彼は「ティルムライを見出したチョーラ」の称号を得た。1000年には大規模な土地調査と土地評価を始め、国土をヴァラナードゥと呼ばれる区画に再編した。1014年に没し、息子のラージェーンドラ1世が王位を継いだ。

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