伝記
真宗は、北宋の第3代皇帝である。968年12月23日に生まれ、1022年3月23日に没した。在位は997年から1022年に及ぶ。諱は最初は徳昌といい、983年に元休、986年に元侃と改め、995年に恒となった。第2代の太宗の第3子で、のちに第6子の趙禎が跡を継いで第4代の仁宗となる。太宗の方針を受け継いで文治主義を進めたが、その結果として軍事力の弱体化を招いたとされる。
治世の大きな転機は契丹との戦いである。999年、西夏と結んだ契丹の聖宗による南征を受けた。当初は小規模な軍事行動だったが、1004年に聖宗と摂政の承天太后が親征し、20万と号する大軍を南下させた。宋朝は動揺し、王欽若ら多くの官僚は江南への遷都を唱えたが、寇準は断固として抗戦を主張した。真宗はその意見を容れ、契丹に対する親征を決意する。両軍は澶州で膠着状態となった。宋は西夏との軍事的緊張もあって契丹にだけ大軍を用いるのは不利だと理解しており、真宗は寇準の反対を押し切って契丹に使者を送り、和議が成立した。これが澶淵の盟である。以後、宋は契丹に毎年銀10万両と絹20万匹を贈り、宋が兄、契丹が弟の礼をもって付き合うこととなった。この和議は百年を超える平和をもたらしたが、劣位を認めた代償として、贈与は次第に国庫を損なったとされる。銀絹の額を尋ねられた使者が指を3本立てたのを見て、真宗は300万かと驚き、30万と聞いて安心したという話が残る。また澶淵の盟ののち、西夏も独力で宋に対抗する限界を悟り、宋と和議を結んだ。
その後、真宗は寇準を王欽若の讒言で罷免した。1008年には、王欽若や道士が仕組んだ天書事件が起こる。天から降りたと称する神託を捏造したもので、澶淵の盟以来低下していた真宗の権威を神格化する政治的演出であった。その符瑞により元号を大中祥符と改め、泰山で封禅の儀を行い、さらに宮殿の造営など国威発揚の事業を重ねた。国費を著しく消耗させたことは後世に非難されている。道教も強く尊び、道士の張守真に翊聖保徳真君の称号を与え、1014年にその像を建てた。道士への免税や道観の建築を進め、1019年には整理された道教経典『大宋天宮宝蔵』を完成させている。1013年から1015年にかけては、玉皇を天の最高の支配者として神格化する詔も出した。
内政では、福建路で栽培されていた占城稲を1012年に江南各地へ広めたことが特筆される。風水害に強く短期間で育つこの稲の普及は、江南以南での二毛作や二期作を可能にし、農業生産を大きく増やした。「蘇湖熟すれば天下足る」と称される江南の高い生産力の基礎を築いた点で、一定の評価を受けている。1013年には、官吏の成績を税収の目標に基づいて評価する制度も見られ、目標は過去3年の最高と最低の徴収額の平均を基準に定められ、税収の変化に応じて改められたという。
1020年から重い病に苦しみ、日々の政務は第3の皇后である劉氏が担うことが多くなった。1022年、病により崩御した。第6子の趙禎が仁宗として即位したが、実権は皇太后となった劉氏の手に残った。皇后には郭氏と劉氏がおり、仁宗の生母は側室の李氏である。第2皇子の趙玄祐は995年に生まれ、1003年に早世した。後世には、真宗の所有とされる唐宋代の遺物が出土し、のちに台湾の故宮博物院へ渡ったという。その生涯は『開封府』『孤城閉』『大宋宮詞』などのテレビドラマにも登場する。
同じ年に亡くなった人物
- ベルンウァード (1022年没)
- 新神学者シメオン (1022年没)
- オーロフ (スウェーデン王) (1022年没)
- アル=シェイク・アル=ムフィド (1022年没)
- イブン・バウワーブ (1022年)