HISTORICAL PERSON · 1022年没

アル=シェイク・アル=ムフィド

十二イマーム派のシーア派学者・法学者・神学者。ブワイフ朝期で最も著名な学者とされ、教団の指導者だった。弟子にシャリーフ・ムルタダーらがおり、200の著作のうち現存は『イルシャード』など10点。

生涯
1022年没
死亡地
イラク共和国(バグダード県 / バグダード)
出生地
イラク共和国(バグダード)
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

アル=シャイフ・アル=ムフィード(シャイフ・アル=ムフィード)は、十二イマーム派のシーア派に属するイラク出身の学者、法学者、神学者である。本名はアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ブン・アル=ヌアーマーンといい、イブン・アル=ムアッリム(教師の息子)の名でも知られる。父が教師(ムアッリム)であったことによる呼び名である。没年は1022年とされ、生年は948年ごろとされる。

バグダードの北にある小さな町ウクバラに、ヒジュラ暦336年ズルカアダ月11日に生まれたとされる。ただしシャイフ・トゥーシーはヒジュラ暦338年の生まれと伝える。のちに父とともにバグダードへ移ったが、そこではシーア派のブワイフ朝が支配していた。家はマズヒジ族に属するハーリス氏の出であった。学んだ師にはシーア派のシャイフ・アル=サドゥーク(イブン・バーバワイフ)やイブン・クーラワイフがおり、ムゥタズィラ派の学者アブー・アル=フサイン・アル=バスリーやアル=ルンマーニーからも教えを受けた。ハディースの学問はアル=サドゥークから授かったという。

「ムフィード」(益をもたらす者)という称号の由来には二つの説がある。一つは、アル=ルンマーニーの講義にまつわる話である。講義でルンマーニーは、ガディール・フンムの出来事は伝承にすぎず、洞窟の出来事は知識に基づくと述べた。講義のあと、ムフィードはルンマーニーを訪ね、アリーに背いたアーイシャ、タルハ、ズバイルの悔悟は伝承にすぎず、戦いこそ知識に基づく事実だと切り返した。ルンマーニーは彼をバスリーのもとへ送り、その際の書付で彼を「ムフィード」と呼んだという。もう一つは、イブン・シャフルアーシューブが伝えるように、第十二代イマームのムハンマド・アル=マフディーから与えられたとする説である。

神学者としては、ムゥタズィラ派のバスリーに学んだこともあって、その見解を多く取り入れた。マクダーモットは、その神学がアブド・アル=ジャッバールの後期バスラ学派よりも、古いバグダード学派のムゥタズィラ派に近いとみている。神の唯一性と正義をめぐる問題ではバグダード学派やムゥタズィラ派に従ったと思われる。一方でイマーム論と、大罪を犯した者のこの世での位置づけについては、ムゥタズィラ派と意見を異にした。理性(ナザル)の役割を擁護し、論拠と証明によって真理を論じ、誤りを退けることが神学者の務めだと考えた。預言については、神と道徳原理を知るために人間には啓示が絶対に必要だとし、「すべての使徒は預言者だが、すべての預言者が使徒ではない」と述べた。使徒と預言者を区別しながらも両者の働きに違いを認めなかったため、イマームを名称の上でしか預言者や使徒と区別しない立場に立った。

当時のシーア派の指導者と目され、ブワイフ朝期を代表する学者、また優れた法学者とされるが、その評価は主に神学(カラーム)への貢献による。彼を直接知るイブン・アル=ナディームは、カラームにおけるシーア派神学者たちの長と評した。やはり面識のあったタウヒーディーは、雄弁で論争術(ジャダル)に巧みだと述べている。論争の腕は、木の柱が実は金だと相手に信じ込ませるほどだったといわれる。一方でしばしば攻撃を受け、蔵書と学塾が破壊されたこともあった。弟子にはシャリーフ・アル=ムルタダーとシャイフ・トゥーシーがおり、二人とも重要な学者となった。著作は200ほどあったとされるが、現存するのは10ほどで、『アマーリー』『イルシャード』『ムクニア』『タスヒーフ・アル=イティカーダート』などがある。

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