HISTORICAL PERSON · 1013年没

ヒシャーム2世

後ウマイヤ朝の第3代カリフ。11歳で即位したが、アル・マンスールが自らの名で統治し、カリフは宗教的な役割だけの存在となった。一族の内紛で王朝が衰退する中、1013年に49歳で没した。

生涯
1013年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
スペイン王国(コルドバ)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

ヒシャーム2世は、後ウマイヤ朝の第3代カリフである。965年6月11日にコルドバで生まれ、在位は976年から1009年と、1010年から1013年の二度にわたる。父は第2代カリフのハカム2世、生母はバスク人のスブフで、称号はアル・ムアイヤド・ビッラー(神の勝利の援助を受ける者)といった。

976年に父が死去したとき、ヒシャームはまだ11歳の少年で、唯一の後継者だった。イスラーム法は未成年者がカリフとなることを禁じていたため、継承は問題となり、父の弟アル・ムギーラを推す動きもあった。しかし宰相ジャアファル・アル・ムシャフィーはこれに反対し、ムハンマド・イブン・アビー・アーミルにアル・ムギーラを殺害させ、自殺に見せかけたという。別の説では、宮廷のスラブ人護衛兵がヒシャームを叔父に替えようとしたが、母スブフやアル・ムシャフィー、家庭教師でもあったイブン・アビー・アーミルらが陰謀を退けたともいわれるが、これは確かめられていない。こうして宰相とイブン・アビー・アーミルは、母后スブフの支持のもと摂政会議をつくり、ヒシャームを宮殿に閉じ込めた。名目上は統治者でも、政治的な影響力はなかった。

イブン・アビー・アーミルは税の廃止や軍事遠征の成功で人気を高め、軍の支持を固めた。978年にはハージブ(侍従)の地位に就き、977年には共同統治者のアル・ムシャフィーを反逆の罪で処刑したとされる。ガーリブの娘と結婚してこのスラブ人の将軍を味方に引き入れていたが、981年にはそのガーリブとの戦いに勝ち、ベルベル人の将軍ジャアファル・ブン・ハムルーンの助けも得て唯一のハージブとなり、「勝利者」を意味するアル・マンスールの称号を名乗った。行政府はコルドバ東方に造営されたアルマディーナ・アッザーヒラに移され、以後は自らの名で統治した。歴史家のマンサノ・モレノは、カリフは成年に達しても城壁の中に閉じ込められた影のような存在だったと述べている。このためカリフは宗教的な役割を担うだけの存在となり、城壁の中で名目上の君主にとどまった。アル・マンスールはウマイヤ家の正統性への敬意を保ち、コルドバのモスクを大きく拡張し、北のキリスト教諸王国との戦いを再び活発にした。バルセロナに軍を進め、レオン王国を服属させ、997年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を襲って略奪と破壊を行った。

1002年にアル・マンスールが死ぬと、息子のアブド・アルマリクが跡を継いだが、カリフは37歳になっても政治から遠ざけられたままだった。アブド・アルマリクは1007年にアル・ムザッファル(勝利者)の称号を授けられ、1008年に急死した。弟のアブド・アルラフマーン、通称サンチュエロは、子のないヒシャームに自分を後継者に指名させようとして、1009年のクーデターと民衆蜂起を招いた。蜂起はウマイヤ家の王子ムハンマド2世・アル・マフディーが率い、ヒシャームは退位させられた。その後は内紛が続き、六人ものウマイヤ一族がカリフに即位する混乱の中で王朝は急速に衰えた。なお、アル・マンスールの死後には内外で反乱が起こり、アブド・アルマリクは力で鎮圧に当たった。王子を擁立してヒシャームを退けようとしたスラブ人護衛兵はほぼ壊滅させられ、北のガリシア、レオン、ナバーラ、バルセロナへは相次いで遠征した。ヒシャーム2世は1010年に復位したのち、1013年に49歳でコルドバで死去した。

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