伝記
アルフォンス・ドーデは、1840年5月13日、フランスのラングドック地方ガール県のニームで、カトリックの正統派の家庭に生まれた小説家である。両親はブルジョワ階級に属し、父ヴァンサンは絹の製造に携わり、先祖はセヴェンヌ地方の出身で織物工場の経営と絹糸の売買をしていた。母アデリーヌは、アルデッシュ地方の裕福な絹織物商の娘であった。幼少期のほとんどをニーム近郊のベズース村で過ごした。父は生涯どこまでも不運と失敗に付きまとわれた男で、工場を閉鎖したため、ドーデは憂鬱な少年時代を送った。一家は1849年にリヨンに移り、アルフォンスはコレージュ=リセ・アンペールに入学したが、1855年に父が倒れたため、バカロレアの取得を断念せざるを得なかった。
1856年にリヨンを離れ、南部のアレスで学校教師として新生活を始めたが、この仕事は耐えがたかった。後に彼は、アレスを去った後も何か月間か、言うことをきかない生徒たちの中にいるような感覚でぞっとして目が覚めることがあったと語っている。この辛い体験が処女長編『プティ・ショーズ』(1868年)に着想を与えた。1857年11月1日に教職を辞め、パリでジャーナリストを目指していた三歳ほど年上の兄エルネストの元に転がり込んだ。アルフォンスも筆を執り、詩を書いて、小さな作品集『恋する女たち』(1858年)を出版すると、それなりに評判になった。フィガロ紙に雇われ、二、三作の戯曲を書いて注目され始めた。ナポレオン3世の大臣モルニー公爵は彼を親切に扱い、モルニーが亡くなる1865年まで秘書のひとりとして待遇した。
1866年、パリ近郊のクラマールで書かれ、プロヴァンスのフォンヴィエイユの風車をイメージさせる『風車小屋だより』が成功した。1868年に初めての長編『プティ・ショーズ』を出したが、大きな話題にはならなかった。1872年には『陽気なタルタラン』と、三幕の戯曲『アルルの女』を書き上げた。彼を世界中に有名にしたのは『若いフロモンと兄リスレール』(1874年)である。1876年の『ジャック』は、母親のわがままに悩まされる私生児の物語で、以後も『ナバブ』(1877年)、『亡命の諸王』(1879年)、『サッフォー』(1884年)、『不滅』(1888年)などの小説を次々に発表した。タルタランの三部作と、多くが有名になる前に書かれた見事な短編の数々は、彼のライフワークとなった。『月曜物語』には、普仏戦争の敗戦でプロイセン領となったアルザスの学校を舞台に、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」が収められている。
文体は光と色彩にあふれ、まさに「印象主義」と呼ぶにふさわしいと評され、ゾラは彼の作品を「魅惑的」と評価した。基本的に自然主義文学に属し、エドモン・ド・ゴンクール、フローベール、ゾラらと親しくしたが、実力がありながらアカデミー・フランセーズには所属せず、『不滅』にはそこへの批判も見られる。1867年にジュリア・アラールと結婚し、結婚生活は非常に幸せだったようだ。ドーデはサロンを運営し、そこに集った反ユダヤ主義者のドリュモンの『ユダヤのフランス』は、出版社が見つからずにいた。ドーデはユダヤ人嫌いで有名で、その出版に尽力し、1886年にこの本はベストセラーとなった。長男レオンはジャーナリストとなり、アクション・フランセーズの活動家になった。
後年は健康を崩し、クロラールを服用して、不眠症などに悩まされた。1897年12月17日にパリで亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- カール・ワイエルシュトラス (1897年没)
- アンドレス・ボニファシオ (1897年没)
- ジェームス・ジョセフ・シルベスター (1897年没)
- レオン・ゴーティエ (1897年没)
- ヤペトゥス・ステーンストロップ (1897年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=フィリップ・ラモー (1764年没)
- アントワーヌ=アンリ・ジョミニ (1869年没)
- ルーシー・ウォルター (1658年没)
- Athanasios Miaoulis (1867年没)
- アンリ・カッシーニ (1832年没)