伝記
ギヨーム6世は、11世紀前半のアキテーヌ公・ポワティエ伯である。1004年に生まれ、肥満公(ル・グロ)と呼ばれた。ポワティエ伯としては4世にあたり、1030年から1038年までその地位にあった。父はギヨーム5世、母は父の最初の妃アダルモード・ド・リモージュで、ギヨーム5世の第一子、長男であった。異母弟にはのちにアキテーヌ公・ポワティエ伯となるウード、ギヨーム7世、ギヨーム8世がおり、異母妹には、アルマニャック伯ジェロー1世の夫人となったアダライスや、神聖ローマ皇后となったアニェスがいる。
1030年1月31日に父ギヨーム5世が亡くなると、ギヨーム6世はその跡を継いだ。まもなく、おそらくモントルイユ=ベレの小貴族か上層市民の娘であったとされるウスタシーという女性と結婚している。この結婚の後、公領の主要な家臣たちが君主夫妻の周辺から姿を消していった。家臣たちは宮廷の集会にも顔を見せなくなり、そこには潜在的な不満があったと見られている。一方でギヨーム6世は1032年にポワティエに総督を任命し、行政の端緒を開いた。
治世のあいだ、ギヨーム6世は継母アニェス・ド・ブルゴーニュの敵意に悩まされた。アニェスは亡き父の3番目の妃で、夫の死後にアンジュー伯ジョフロワ2世マルテルと再婚していた。ジョフロワ・マルテルはフルク・ネラの子で、サントンジュの支配を望んでいたとされ、ギヨーム6世は彼と戦争に入った。ギヨーム6世はサン=ジュアン=ド=マルヌ近くで敗れて捕えられた。その日付は1033年9月20日とも1034年9月20日ともいわれ、戦場もモンコントゥールの野と伝えられる。
捕虜の身は約3年に及び、1036年に釈放された。釈放の条件は保釈金の支払いだったとも、サントとボルドーの都市を譲ることだったともいわれる。ギヨーム6世はすぐさま戦いを再開したが、またもジョフロワ・マルテルに敗れ、オレロン島を譲らなければならなかった。
ギヨーム6世は1038年12月15日、ポワティエで亡くなったとされる。没月を1038年3月とする記述もある。ウスタシーとの間に知られた子はなく、遺体はマイユゼに葬られたという。後を継いでポワティエ伯とアキテーヌ公になったのは、父の2番目の妃ブリスク・ド・ガスコーニュの子である異母弟ウードであった。
同じ年に亡くなった人物
- イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王) (1038年没)
- セルジューク (1038年没)
- アデライード・ド・ノルマンディー (1038年没)
- ヘルマン4世 (シュヴァーベン大公) (1038年没)
- ヒルデスハイムのゴーデハルト (1038年没)
同じ地域に関係する人物
- デイヴィッド・オグルヴィ (1999年没)
- 中嶋宏 (2013年没)
- ピピン1世 (アクィタニア王) (838年没)
- ギヨーム9世 (アキテーヌ公) (1126年没)
- ピエール1世 (ブルボン公) (1356年没)