HISTORICAL PERSON · 紀元前270年没

エピクロス

サモス島生まれの古代ギリシアの哲学者で、エピクロス派の始祖。精神的快楽を重んじて心の平静を追求し、世界は原子と空虚から成るとした。アテナイ郊外の庭園付きの家で弟子たちと共同生活を営んだ。

生涯
紀元前270年没
死亡地
ギリシャ共和国(アッティキ / アテネ)
出生地
ギリシャ共和国(サモス)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(アッティキ)

伝記

エピクロスは、快楽主義で知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者で、エピクロス派の始祖である。紀元前341年(前342年末とする記述もある)、アテナイの植民地だったサモス島に、アテナイ人入植者の子として生まれた。父は教師だったが、家族の暮らしは貧しかったという。当時のアテナイの青年には2年間の兵役義務があり、前323年、18歳のとき彼もアテナイへ上った。このころアカデメイアでクセノクラテスの、リュケイオンでテオプラストスの講義を聞いたと言われる。2年後に家族のもとへ戻ると、サモスのアテナイ人入植者はペルディッカスに弾圧されて、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。彼は家族と合流し、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。

前311年、レスボス島で自分の学校を開いたが迫害を受け、翌年には小アジア北方のラムプサコスへ移って、のちのエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。前307年か前306年には弟子たちとアテナイへ移り、郊外に庭付きの小さな家を買って、共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。この学園は万人に開かれ、ラエルティオスは聴講生として何人かの遊女の名を記録している。この時代には珍しく、女性や奴隷も弟子に含まれたという。彼は友人を訪ねる数度の旅のほかはこの園で過ごし、前270年に72歳で世を去った。園は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。

その哲学の土台は、デモクリトスに負う自然思想にある。世界は、それ以上分割できない原子と空虚から成り、感覚は信頼でき、認識の誤りは感覚経験を評価する思考の過程から生じるとした。魂もまた原子から成り、死によって感覚を失うので、死は恐れるに足りない。「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない」と述べた。また神々は世界の外にあって人間には関わらないとされた。倫理では、快楽こそ善であり人生の目的だと説き、快楽主義と呼ばれるが、それは快楽なら何でも追えという意味ではない。行為の後に生じる不快が快を上回るなら、その行為は選ぶべきでないとした。欲求を、自然で必要なもの(健康、食事、衣服、住居)、自然だが不必要なもの(大邸宅、豪華な食事)、自然でも必要でもないもの(名声、権力)の三つに分け、自然で必要な欲求だけを満たして、苦痛や恐怖から自由な「平静な心(アタラクシア)」に至るのが善だとした。友愛もその幸福に欠かせなかった。

彼の思想は、しばしば放埒な生活の肯定だと誤解されてきたが、彼自身は「メノイケウス宛の手紙」で、放縦で享楽的な生活では快は得られないと否定している。ストア派は、園の自足的で閉鎖的な暮らしを激しく批判した。彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景には、マケドニアによる反体制者の処刑や思想の弾圧など、アテナイの不穏な情勢があったとされる。「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」という言葉も、簡素な暮らしで足りる彼の考えをよく表している。のちには、快楽主義者を意味する語に転化して、この哲学は肉体的快楽の追求と受け取られるようになった。

著作は大半が失われ、ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』第10巻が、評伝と三通の手紙、主要教説を伝える。ローマではルクレティウスやピロデモスによってエピクロス主義が流行し、園はカエサルの時代にも第14代の学頭に受け継がれていたという。18世紀のヘルクラネウムの「パピルス荘」からは、彼の主著『自然について』の断片が出土し、胸像も見つかっている。

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