伝記
マニウス・クリウス・デンタトゥスは、共和政ローマ前期の政治家・軍人で、平民の出身ながら三度執政官を務め、第三次サムニウム戦争を終結させた英雄である。父も祖父もマニウス・クリウスといい、デンタトゥスという異名は「歯のある」を意味する。生まれたときすでに歯が生えていたことに由来するといわれ、大プリニウスがそう伝えている。
最初に名が見えるのは護民官としてである。紀元前298年ごろ、インテルレクスを務めていたアッピウス・クラウディウス・カエクスが、執政官選挙から平民の候補者を締め出そうとした。デンタトゥスは元老院に働きかけ、民会で選ばれる平民の政務官をあらかじめ承認させて、これに抵抗したとされる。この行動によって彼自身が有力な候補者となったが、アッピウスは平民の執政官が並び立つことに強く反対した。そのため当選は、アッピウスが三度インテルレクスを務めたあとになったという。紀元前290年に執政官となったデンタトゥスは、サムニウム人とその同盟者を破って第三次サムニウム戦争を終わらせ、サビニ人の反乱も鎮めた。サムニウム人とサビニ人に対する二度の凱旋式を挙行し、さらにルカニア人に勝って小凱旋式(オウァティオ)も行ったとされる。その後は、国家事業であるウェリヌス湖の排水事業に加わった。
紀元前283年ごろには、アレティウムでガリア人に敗れて戦死した執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルの後任として、プラエトルに就いたとされる。ポリュビオスによれば、デンタトゥスはまず捕虜の返還を求める使節を送ったが、ガリア人は使者を殺した。怒ったローマ軍はセノネス族をその地から追い払い、アドリア海に面した土地にセナ・ガリカの植民地が築かれたという。ただし、この戦いの指揮官がデンタトゥスだったかどうかは、はっきりしない。
紀元前275年、二度目の執政官となったデンタトゥスは、エピロス王ピュロスと戦うため、徴募に応じない兵士の財産を売り払うなど厳しい態度で臨んだ。ベネウェントゥムの戦いでピュロスを退け、王はイタリア半島から撤退した。デンタトゥスは凱旋式を行い、行列にはタレントゥムからの略奪品とともに象も並んで、それまでにない壮麗さだったという。ピュロスからの戦利品には手を付けず、元老院が多くの土地を割り当てようとしても断り、ほかの市民と同じ広さしか受け取らなかったという逸話も残る。土地が少ないと不満を言う兵士には、自分を養うに足る土地を小さいと思うローマ人があってはならない、と答えたとも伝わる。のちに元老院は功績への報償として、ティファタ山のそばの農場と土地を彼に与えたともいう。翌年も続けて執政官を務めた。
紀元前272年には監察官となり、同僚が亡くなっても辞任せず、ローマで二番目に古い水道である旧アニオ水道の建設を引き継いだ。紀元前270年にも水道二人官の一人として建設を担当し、費用にはそれまでに得た戦利品があてられたという。しかし工事の途中でデンタトゥスは亡くなり、水道はマルクス・フルウィウス・フラックスの監督のもとで完成した。質素で清廉な人物としても知られる。晩年は農業をして暮らし、サムニウム人の使節が高価な贈り物を持って訪ねると、炉端でかぶを焼いていた。彼は賄賂を断り、金を持つ者に指図する側にいるほうが性に合う、と答えたという。この話は大カトの創作かもしれないともいわれるが、レンブラントら多くの画家に描かれた。
同じ年に亡くなった人物
- エピクロス (紀元前270年没)
- ピュロン (紀元前270年代没)
- マルクス・ウァレリウス・コルウス (紀元前270年没)
同じ地域に関係する人物
- Lucius Volusius Saturninus (56年没)
- シルヴァーナ・パンパニーニ (2016年没)
- Hendrik Voogd (1839年没)
- クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前95年の執政官) (紀元前82年没)
- ホノリウス4世 (ローマ教皇) (1287年没)