伝記
ヨハン・シュトラウス2世は、1825年10月25日、ウィーン郊外のロフラノ通り76番地で生まれた作曲家、指揮者である。ヨハン・シュトラウス1世の長男で、弟にヨーゼフとエドゥアルトがいる。母は居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムで、母が身ごもったことが両親の結婚のきっかけだった。ヨハンと弟たちは幼い頃、母アンナから、自分の祖父はスペインの大公だったが、刃傷沙汰を起こしてウィーンへ逃れたのだという話を聞かされて育った。明らかな作り話だが、シュトラウス家は蔑視されたユダヤ人の子孫であったため、子供たちに劣等感を持たせまいとして語ったのだろうと、研究者の小宮正安は推測している。ヨハンは生前、少年時代のことを語らず、親友が触れると「それは、つらい思い出だ」と呟いたという。父は自らが率いる楽団で、賃金も練習時間も思いどおりにし、逆らう者を即刻解雇する厳格な人間で、家庭でも妻子に罵詈雑言を浴びせ、暴力をふるった。
ヨハンは、自分の誕生時すでに著名だった父に憧れて音楽家を志したが、父は音楽家が浮き草稼業だと知っていたので、息子たちを音楽家にするつもりはなく、楽器に触れることを禁じた。例外はピアノの練習だけだった。家に父のリハーサル場があり、音が漏れていたので、ヨハンは弟ヨーゼフとそれを聴きとって連弾して遊んでいた。父は、楽譜出版業者から息子たちの演奏を聞かされて驚き、「お前たち、誰にもひけをとらないぞ」と語ったという。6歳のとき、母方の祖父母の家の小さな卓上ピアノで、36小節のワルツを作曲し、アンナが『最初の着想』と名付けて譜面に写した。8歳でピアノの弟子を取って授業料を貯め、ヴァイオリンを買って鏡の前で父の真似をして練習したが、ある日それを見つけた父は激怒し、ヴァイオリンを叩き壊した。アンナはすぐに新しいヴァイオリンを買い与えた。夫は愛人のもとに入り浸っていたので、息子を夫以上の音楽家に育て、復讐しようという思いもあったという。ヨハンは技師学校をやめて、ひそかに楽団の第一奏者に学んだが、発覚して教師は解雇された。その後、商学部で簿記を学んだものの、1842年に退学して音楽に専念した。ほぼ独学だった父とは対照的に、正統的な学習で基礎を築こうとした。
1844年、修行を終えて準備を始めたデビューコンサートを、父は妨害しようとして、飲食店に圧力をかけ、楽団員に息子の味方をしないよう禁じ、記者まで買収しようとした。ヨハンは負けじと、新しい飲食店に売り込み、若手の音楽家を発掘して自分の楽団を作った。当時の法律では音楽家になるには20歳以上でなければならず、彼はまだ18歳だったが、役所に涙ながらに窮状を訴えて許可を得た。10月15日のデビューでは、父と同じく、ヴァイオリンを弾きながら指揮し、大成功を収めた。批評家ヴィーストは「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」と書いた。1848年の革命では、革命支持者を名乗って『革命行進曲』などを作曲し、ラ・マルセイエーズを演奏して、宮廷に嫌われた。1849年に父が死去すると、父の楽団を吸収して、一晩に5軒以上の舞踏場を回るほど多忙になった。過労で倒れたため、母の思いつきで、弟ヨーゼフとエドゥアルトも音楽家になった。生涯、ワルツやポルカを作曲し、『美しく青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『皇帝円舞曲』、オペレッタ『こうもり』で、「ワルツ王」と呼ばれた。1899年6月3日に没した。
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