伝記
ビールーニーは、ホラズム出身の学者である。本名はアブー・ライハーン・ムハンマド・イブン・アフマド・アル=ビールーニー・アル=フワーリズミーで、数学、天文、地理、歴史にわたる100篇を超える著書があったと見られ、現在に伝わるのはそのうち30篇弱とされる。20世紀前半のアラビア科学研究の権威は、11世紀前半を「ビールーニーの時代」と呼んだ。
973年9月4日、ホラズムの首府カースの「ビールーン」で生まれたという。ビールーンとは、ペルシア語で「郊外」を意味する普通名詞で、彼の名はこの生地に由来する。母語はホラズム語で、最初の25年ほどを故郷で過ごし、イスラーム法学、神学、文法、数学、天文学、医学、哲学などを学んだ。アブー・ナスル・マンスールに数学を学び、995年にアフリーグ朝がマームーン朝に倒されると、故郷を離れてブハラに赴き、当時サーマーン朝を率いていたマンスール2世のもとに身を寄せ、イブン・スィーナーとも書簡を交わした。この二人の間には、自然学をめぐる書簡による論争が残っており、ビールーニーがアリストテレスの『天体論』などに対する疑問を投げかけ、イブン・スィーナーが答える形式で、氷が水に浮く理由といった身近な疑問まで含まれる。
998年にはタバリスターンのズィヤール朝の君主カーブースの宮廷に赴き、1000年頃に最初の大著『古代諸民族年代記』を書き上げた。これは歴史と科学の年代学をあつかった書であり、のちにゾロアスター教の重要な資料ともなった。アフリーグ朝の滅亡を受け入れてマームーン朝と和解し、その宮廷があったグルガーンジュでは、かつての師マンスールと再び共同で研究した。ホラズム・シャーのマアムーンにも仕えた。
1017年、ホラズム・シャーが殺されると、ガズナ朝のスルターン・マフムードがホラズムに侵攻してカースを奪った。ビールーニーは、マンスールらとともに、捕虜であった可能性もあるが、勝者に連れられて首都ガズナへ移り、以後の生涯の多くをそこで過ごした。宮廷の占星術師となり、マフムードの十数回に及ぶインド遠征に随行して、数年間をインドで暮らした。インドの民俗、歴史、法律、言語、ヒンドゥー教などを調べ、1030年ごろ『インド誌』を完成させた。遠征中も太陽の高度を測る方法を求め、間に合わせの四分儀を作るなど、科学の研究を続けた。
同じ1030年に、天文学書『マスウード宝典』をまとめた。この書でアーリヤバタの地球の自転説を紹介したが、自らは採用していない。また、地球の半径を約6339.6キロメートルと計算しており、現在の観測による赤道面の半径6378キロメートルにきわめて近い。他に薬学全集『サイダナの書』、鉱物事典『宝石の書』などを著した。著書は主にアラビア語で書かれ、インド関連の著作が20篇ほどあり、『ヨーガ・スートラ』のアラビア語訳もある。プトレマイオスの『アルマゲスト』をサンスクリットに訳そうとしたが、成功した証拠は見つかっていない。ペルシア語、アラビア語、サンスクリットに通じ、ギリシア語、ヘブライ語、シリア語も知っていたとされる。諸民族の習慣や信仰を公平に記した書き手として、インド描写で「先生」と呼ばれた。
没年は1048年12月13日とされ、1050年頃にガズナで亡くなったとする資料もある。
同じ年に亡くなった人物
- アダルベール (ロレーヌ公) (1048年没)
- ヴィポ・フォン・ブルグント (1048年没)
- 李元昊 (1048年没)
- グレゴリウス6世 (ローマ教皇) (1048年没)
- ダマスス2世 (ローマ教皇) (1048年没)
同じ地域に関係する人物
- アルプテギーン (963年没)
- ハムザ・ビン・ラーディン (2019年没)
- マフムード (ガズナ朝) (1030年没)
- ファッルヒー・スィースターニー (1037年没)
- ウンスリー (1039年没)