伝記
レオ9世は、十一世紀半ばのローマ教皇で、在位は1049年から1054年である。1002年6月21日に生まれ、1054年4月19日に没した。前名はブルーノという。ヒルデブランド(後の教皇グレゴリウス7世)らの人材を得て、教会改革に力を尽くした。カトリック教会では聖人として敬われている。生地には諸説があり、日本語版はアルザスのダグスブルクとするが、フランス語版は、ヴァルシャイト伯領かエギスハイム伯領のどこかとされ、今も議論があるとする。そのため、「ロレーヌ出身の教皇」とも「アルザス出身の教皇」とも呼ばれる。
父はアルザスの貴族エギスハイム伯家の人で、母はロレーヌ貴族ダグスブルク伯家の娘である。フランス語版によれば、母方はフランク西部のカロリング家に、父方はゲルマニアの王家に連なる高い家柄で、神聖ローマ皇帝コンラート2世の縁者であった。五歳のときに、トゥール司教ベルトルトに預けられ、大聖堂付属の学校で教育を受けて、優れた才能を示した。ゴルツェの改革運動の影響を受け、若くして大聖堂の参事会に入った。コンラート2世の宮廷に呼ばれ、1025年に助祭となり、1026年にはトゥールで集められた軍を率いてロンバルディアへの遠征に加わった。同年、コンラート2世によってトゥールの司教に任じられ、在位は1051年まで続いた。
司教のときから、聖職売買や聖職者の妻帯と戦い、クリュニー修道院とゴルツェの改革運動に連なる人々を協力者に選んだ。1048年には、イルデブランドを見いだして側近とした。1049年、コンラート2世の息子であるハインリヒ3世の推挙を受け、トゥール司教のままローマ教皇に即位した。日本語版は登位を2月12日とする。当時は皇帝の権威が弱く、ローマの有力家系が教皇の選出に口を出そうとして混乱し、皇帝の指名した教皇が続けて暗殺されていた。そこで、道徳的に非のない人物として、ブルーノが選ばれた。皇帝の指名という形を避けるため、彼は巡礼者としてローマへ行き、ローマ人に気に入られた場合だけ選んでほしいと謙虚に頼んだという。教皇名は、ローマ司教の首位を説いた大レオにちなむ。
教皇となってからは、乱れた教会秩序を回復するため、皇帝との協調を保ちながら改革に努めた。クリュニー修道院の主張から多大な影響を受け、その出身者をはじめ、多くの有能な改革者を教皇庁に取り込んだ。その中には、後の教皇グレゴリウス7世となるイルデブランドもいた。教皇庁の組織は強められ、数多くの修道院がローマに結びつけられた。在位は五年に及んだが、ローマで過ごしたのは半年に満たないと推定される。ドイツやフランスの各地で改革の教会会議を開き、現地の司教や修道院長を集めて、聖職売買と聖職者の妻帯を禁じる決議をして、その徹底をはかったからである。これは後のグレゴリウス改革の先駆であり、初期の教会改革を代表する試みと評される。
東西教会の分裂を収めようとする努力もしたといわれるが、コンスタンティノポリス総主教ケルラリウスを破門し、かねて進んでいた東西教会の分離を決定的にした。1053年には、教皇庁をおびやかす南イタリアのノルマン人勢力と戦って自ら捕虜となり、獄中でマラリアにかかり、翌年それがもとで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- Lambert II, Count of Louvain (1054年没)
- アティーシャ (1054年没)
- イラリオン (キエフと全ルーシの府主教) (1054年没)
- ガルシア3世 (ナバラ王) (1054年没)
- 李徳 (1054年没)
同じ地域に関係する人物
- カルロ・マデルノ (1629年没)
- ヴァルテル・ボナッティ (2011年没)
- ルチアーノ・サルチェ (1989年没)
- リズ・オルトラーニ (2014年没)
- アントニオ・マルチェッロ・バルベリーニ (1646年没)