HISTORICAL PERSON · 1061年没

フロリス1世 (ホラント伯)

ホラント伯。兄ディルク4世の死後に伯位を継ぎザクセン公の娘と結婚したが、皇帝に対するロートリンゲン貴族の反乱に巻き込まれ退却中に待ち伏せされ戦死した。

生涯
1061年没
死亡地
オランダ(ヘルダーラント州 / ネーデルヘーメルト)
出生地
オランダ(フラールディング)
出典
世界地図
オランダ(ヘルダーラント州)

伝記

フロリス1世は、11世紀中ごろのホラント伯である。1017年ごろ、ホラント伯ディルク3世とオテレンディスの子としてフラールディンゲンに生まれた。生年は1010年から1021年の間ともいわれる。母オテレンディスはノルトマルク家の出で、母方を通じてキエフ・ルーシの公の孫娘にあたる可能性も指摘される。当時のホラントはフリースラントとも呼ばれ、伯は皇帝や周辺の司教たちと緊張した関係にあった。

1049年、兄のディルク4世がユトレヒト、リエージュ、メスの司教たちの軍勢に殺害された。兄には跡継ぎがなく、フロリスは最初いったん逃れたのち、兄のあとを継いでホラント伯となった。兄の死後、敵対勢力はドルドレヒト周辺の土地を奪ったが、ロレーヌ公ゴドフロワの助けで取り戻したとされる。伯はその後、先代にならってマース川を上り下りする商品から通行税を取り立てたという。1050年ごろにはザクセン公ベルンハルト2世の娘ゲルトルートと結婚した。

伯となったのちも司教たちとの関係は悪く、フラールディンゲン近くの通行税をめぐって皇帝とも対立した。ユトレヒト司教ウィレムは、フロリスがドルドレヒトの領地を不当に保持していると考え、ハインリヒ3世の未亡人である皇后アグネスに働きかけて、ホラント伯との戦争を宣言させたとされる。リエージュ、ケルンの司教の軍、ルーヴェン伯、カイク領主、ブランデンブルク辺境伯の軍が動いた。城がいくつも奪われる中、フロリスは兵力の劣勢を知恵で補ったと伝えられる。ドルドレヒトに退き、攻撃を予想した場所に深い穴を掘って弱い枝と薄い草で覆い、城から出る勇気がないふりをして敵を誘い込んだ。敵の騎馬は穴に落ちて混乱し、フロリスは自軍とともに襲いかかって大きな勝利を収め、失った領土を取り戻したという。ユトレヒト司教の軍に対する勝利は、1061年のオーデュセンでの戦いとして伝えられる説もある。

同盟軍は敗北の恥をそそごうと、1061年に再び攻めてきた。フロリスはマース川とワール川のあいだ、ヘメルト(ネーデルヘメルト)の近くで戦い、いったん敵を敗走させたとされる。しかしこの勝利が命取りになった。戦いに疲れた伯が、戦場から少し離れた木陰で眠り込んだところを、兵を集め直したカイク領主が襲って殺害したという。ほかに、ザルトボメルから退却する際に待ち伏せにあったともいわれる。いずれにせよ皇帝に対するロートリンゲン貴族の反乱に巻き込まれた末の戦死で、1061年6月28日のことであった。この戦いでは数百人の兵も共に討たれたとされる。

遺体は最初エフモント修道院に葬られたといい、1935年に再建された修道院の新しい霊廟に、掘り出された遺骨とされるものが安置されている。ただし、その骨が本当にフロリスのものかには強い疑いが残る。ヤコブス・ファン・ディクは、ネーデルヘメルトでの伯の死を題材とした絵を描いている。子には、1052年ごろに生まれて伯位を継いだディルク5世(1091年没)、フランス王フィリップ1世と結婚したベルタ、リエージュの司祭となったフロリスらがいる。ほかにアデルがギネ伯ボードゥアン1世と結婚し、マティルドもいたとされるが、子の数や名には異なる記述がある。1063年、未亡人ゲルトルートは、のちにフランドル伯となるロベール1世と再婚し、ホラントの摂政としてディルク5世の後見人となった。

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