伝記
フロリス1世は、11世紀中ごろのホラント伯である。1017年ごろ、ホラント伯ディルク3世とオテレンディスの子としてフラールディンゲンに生まれた。生年は1010年から1021年の間ともいわれる。母オテレンディスはノルトマルク家の出で、母方を通じてキエフ・ルーシの公の孫娘にあたる可能性も指摘される。当時のホラントはフリースラントとも呼ばれ、伯は皇帝や周辺の司教たちと緊張した関係にあった。
1049年、兄のディルク4世がユトレヒト、リエージュ、メスの司教たちの軍勢に殺害された。兄には跡継ぎがなく、フロリスは最初いったん逃れたのち、兄のあとを継いでホラント伯となった。兄の死後、敵対勢力はドルドレヒト周辺の土地を奪ったが、ロレーヌ公ゴドフロワの助けで取り戻したとされる。伯はその後、先代にならってマース川を上り下りする商品から通行税を取り立てたという。1050年ごろにはザクセン公ベルンハルト2世の娘ゲルトルートと結婚した。
伯となったのちも司教たちとの関係は悪く、フラールディンゲン近くの通行税をめぐって皇帝とも対立した。ユトレヒト司教ウィレムは、フロリスがドルドレヒトの領地を不当に保持していると考え、ハインリヒ3世の未亡人である皇后アグネスに働きかけて、ホラント伯との戦争を宣言させたとされる。リエージュ、ケルンの司教の軍、ルーヴェン伯、カイク領主、ブランデンブルク辺境伯の軍が動いた。城がいくつも奪われる中、フロリスは兵力の劣勢を知恵で補ったと伝えられる。ドルドレヒトに退き、攻撃を予想した場所に深い穴を掘って弱い枝と薄い草で覆い、城から出る勇気がないふりをして敵を誘い込んだ。敵の騎馬は穴に落ちて混乱し、フロリスは自軍とともに襲いかかって大きな勝利を収め、失った領土を取り戻したという。ユトレヒト司教の軍に対する勝利は、1061年のオーデュセンでの戦いとして伝えられる説もある。
同盟軍は敗北の恥をそそごうと、1061年に再び攻めてきた。フロリスはマース川とワール川のあいだ、ヘメルト(ネーデルヘメルト)の近くで戦い、いったん敵を敗走させたとされる。しかしこの勝利が命取りになった。戦いに疲れた伯が、戦場から少し離れた木陰で眠り込んだところを、兵を集め直したカイク領主が襲って殺害したという。ほかに、ザルトボメルから退却する際に待ち伏せにあったともいわれる。いずれにせよ皇帝に対するロートリンゲン貴族の反乱に巻き込まれた末の戦死で、1061年6月28日のことであった。この戦いでは数百人の兵も共に討たれたとされる。
遺体は最初エフモント修道院に葬られたといい、1935年に再建された修道院の新しい霊廟に、掘り出された遺骨とされるものが安置されている。ただし、その骨が本当にフロリスのものかには強い疑いが残る。ヤコブス・ファン・ディクは、ネーデルヘメルトでの伯の死を題材とした絵を描いている。子には、1052年ごろに生まれて伯位を継いだディルク5世(1091年没)、フランス王フィリップ1世と結婚したベルタ、リエージュの司祭となったフロリスらがいる。ほかにアデルがギネ伯ボードゥアン1世と結婚し、マティルドもいたとされるが、子の数や名には異なる記述がある。1063年、未亡人ゲルトルートは、のちにフランドル伯となるロベール1世と再婚し、ホラントの摂政としてディルク5世の後見人となった。
同じ年に亡くなった人物
- スピチフニェフ2世 (1061年没)
- フンベルトゥス (1061年没)
- アブー・サイード・ガルディーズィー (1061年)
- Pressiyan II (1061年没)
- アリ・イブン・リドワン (1061年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・スヒレベークス (2009年没)
- マックス・カール・ヴィルヘルム・ヴェーバー (1937年没)
- ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ (1941年没)
- マルティヌス・ベイエリンク (1931年没)
- フェドル・デン・ヘルトフ (2011年没)