伝記
プレシアン2世(プルシアンとも)は、第一ブルガリア帝国最後の皇帝イヴァン・ウラディスラフの長男と考えられる人物である。ビザンツ帝国による征服ののち帝国に仕えたが、帝位簒奪の陰謀に加わったとして目を潰され、剃髪を受けた。その後は歴史の記録から姿を消す。生年は996年か997年、没年は1060年か1061年とされる。
イヴァン・ウラディスラフと妻マリアのあいだの長男だったらしく、5人の弟と6人の姉妹がいた。1018年2月に父が没すると、ビザンツ皇帝バシレイオス2世に対するブルガリアの抵抗は崩れた。ただ、オフリドが降伏したあとも、貴族と軍の一部はプレシアンを父の後継者として担いだともいわれる。プレシアンは弟のアルシアン、アロンとともにトモロス山に逃れ、山はバシレイオスの兵に囲まれた。3人は身の安全の保証を得て降伏した。プレシアンにはマギストロスの高位が与えられ、これが長男で父の後継者と見られていたことをうかがわせる。アルシアンとアロンにはパトリキオスの称号が与えられた。母や残りのきょうだいは、すでにオフリドでバシレイオスに降伏していた。
同じころ、ビザンツの貴族と縁を結び、ロマノス・クルクアスの姉妹と結婚した。コンスタンティノス8世の時代にはブケラリオン軍管区の長官(ストラテゴス)を務めた。在任中にバシレイオス・スクレロスと争い、2人は殴り合うまでになった。皇帝は2人を王子諸島に流し、一方をプラティ島に、他方をオクシア島に送った。スクレロスは逃亡を企てたと訴えられて目を潰された。ヨハネス・スキュリツェスによれば、プレシアンも同じ運命をかろうじて免れ、釈放された。
ロマノス3世アルギュロスの時代には、コンスタンティノス8世の娘テオドラとともに、皇帝を倒す陰謀を企てたと訴えられた。マヌエル修道院に流され、訴えが事実と証明されると目を潰された。ゾステ・パトリキアの高位を得ていた母も、コンスタンティノープルから追放された。1030年か1031年には、修道士として剃髪を受けた。
その後の消息は分かっていない。ただ、現在のスロバキアにあるミハロフツェ(当時はハンガリー王国の一部)で、「プレシアン公」という人物の墓石が見つかっている。墓石には、世界創造紀元6569年(西暦1060年か1061年)に没したと刻まれ、生年は6505年(996年か997年)とある。このことから、晩年はハンガリーに移り住んだ可能性も考えられるが、墓石の人物がイヴァン・ウラディスラフの息子と同一かどうかについては異論がある。
同じ年に亡くなった人物
- フロリス1世 (ホラント伯) (1061年没)
- アリ・イブン・リドワン (1061年没)
- イサキオス1世コムネノス (1061年没)
- ナースィル・ホスロー (1061年没)
- 相模 (歌人) (1061年)
同じ地域に関係する人物
- Marko Krizin (1619年没)
- Stephen Pongracz (1619年没)
- ボチカイ・イシュトヴァーン (1606年没)
- ラーコーツィ・フェレンツ2世 (1735年没)
- ゲオルク・レティクス (1574年没)