伝記
ナースィル・ホスローは、11世紀のペルシアの詩人、イスラム神学者で、旅行記作家、イスマーイール派の教宣員(ダーイー)、思想家としても知られる。1003年に、バルフ近郊のクバーディヤーンの裕福な家に生まれた。没年は1061年とされることが多いが、資料はおそらくイスラム暦481年に死去したとも述べ、諸説がある。
初めはイスラム正統のスンナ派で、ハナフィー派の塾で学んだといわれる。青年のころは、クルアーンやイスラム神学はもとより、文学、数学、音楽、天文学、医学など広い学問を修め、特にギリシャ哲学に強く心を惹かれた。バルフでガズナ朝のスルタン、マフムードやマスウードに仕え、1030年にマフムードが没したのちは、学業のかたわら、インド、トルキスタン、アフガニスタンなど各地を旅して見聞を広めた。1040年にバルフがセルジューク朝の攻撃で陥落してガズナ朝の勢力が駆逐されると、メルヴへ移り、セルジューク朝の首長チャグリー・ベグに税務官として仕えた。そのまま仕えていれば高官になっただろうといわれるが、彼はその職を辞した。
転機は1045年の秋に訪れた。そのころ、ジョウズジャーンで一か月近く飲酒に耽っていた彼は、ある夜、夢を見た。ある者が現れ、人の叡智を衰えさせる酒をいつまで続けるのか、正気に返れと言い、知性を増すものを求めよと告げて、メッカの方角を指さした。目覚めても一部始終を覚えており、四十年来の夢から覚めねばならないと考え、すべての行いを改めることを決意した。彼はこのときから生活を一変し、弟アブー・サイードとインド人の下僕を伴って故郷をあとにし、長い旅に出た。旅は1052年まで7年に及んだ。ニーシャープール、タブリーズ、アレッポ、ベイルート、エルサレム、カイロ、アスワン、メッカ、バスラ、エスファハーンなどを巡り、この見聞が、のちに旅行記『サファル・ナーメ(旅行記)』にまとめられた。当時ファーティマ朝の治下にあったエジプトで、彼はイスマーイール派に改宗し、「立証(フッジャ)」の称号と、ホラーサーン地方での布教の任務を授けられた。バルフに戻ったとき、彼の齢は50歳に達していた。
以後は、残りの生涯をイスマーイール派の布教に捧げ、各地に教宣員を派遣した。だがスンナ派の反対が高まり、セルジューク朝の君主によってホラーサーンを追われた。ホラーサーンは、ガズナ朝やセルジューク朝の下で、シーア派やイスマーイール派には受難の地であり、宰相ニザーム・アルムルクの登場で迫害はいっそう激しくなった。彼は秘密裏に布教を続け、マーザンダラーン、ニーシャープールへと逃れ、最後に、バダフシャーンの山中のユムガーンにたどり着いた。周囲から異端視されて義絶され、流浪の果ての僻地で、悲しみは深かった。詩集にはその悲しみを詠んだ詩が多い。それでも、この逆境は正しい道を求める者が耐えねばならないものだと自らに言い聞かせた。余生の約20年をこの地で過ごし、ほとんど外へ出ることなく、布教のための執筆に専念し、弟子たちを各地へ送り続けた。イスマーイール派の一派、ナースィリーヤ派を創めたともいわれる。
著書の多くは散逸したが、旅行記は、見聞と伝聞を区別するなど正確さに努めた、11世紀のイスラム世界を知る貴重な文献である。詩集『ディーワーン』は、哲学や神学を主題とするカスィーダ(頌詩)で、現存する最古の写本は、彼の死後約2世紀を経た、イスラム暦714年のものである。ほかに『宗教の顔』や『二賢集合の書』、『幸福の書』などがある。
同じ年に亡くなった人物
- スピチフニェフ2世 (1061年没)
- ブルクハルト1世 (1061年没)
- フンベルトゥス (1061年没)
- イサキオス1世コムネノス (1061年没)
- ニコラウス2世 (ローマ教皇) (1061年没)
同じ地域に関係する人物
- アブドル・ハク (2001年没)