HISTORICAL PERSON · 1061年没

イサキオス1世コムネノス

東ローマ帝国の皇帝(在位1057〜59年)。軍事貴族コムネノス家の出身で、1057年に反乱を起こして首都に進軍しミカエル6世を退位させた。徴税強化などで財政を再建したが反発を招き、病で退位した。

生涯
1061年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / ストゥディオス修道院)
出生地
ローマ帝国(東ローマ帝国)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

イサキオス1世コムネノスは、東ローマ帝国の皇帝で、1057年から1059年まで在位した。コムネノス家から出た、初めての在位皇帝である。没年は、1060年6月1日とする資料と、1061年とする資料があり、一致しない。

小アジア(アナトリア)に多くの所領を持つ軍事貴族の出身で、父は将軍マヌエル・エロティコス・コムネノスである。978年に反乱者バルダス・スクレロスに対してニカイアを守ったと伝えられる。母マリアは早く亡くなり、1020年、父は臨終に際して、生き残った二人の息子イサキオスとヨハネスを皇帝バシレイオス2世に託した。伝記作家ニケフォロス・ブリュエンニオスによれば、二人はストゥディオス修道院で最良の教師のもとで育てられ、軍事訓練や狩猟も教えられた。成人すると近衛部隊に入った。早ければ1025年ごろ、最後のブルガリア皇帝イヴァン・ブラディスラフの娘アイカテリネーと結婚した。東方軍の総司令官に当たる地位に就いたが、1054年に皇后テオドラに解任された。

1056年、ミカエル6世が即位すると、東方の将軍たちの使節の代表に選ばれた。ミカエル6世が文官を大量に昇進させる一方、通貨の悪化で軍人の俸給が目減りしており、軍人貴族の不満は、宦官と文官の政権への反感とともにくすぶっていた。翌1057年、ミカエル6世に反乱を起こし、6月8日、支持者に皇帝と宣言され、軍を率いて首都へ進んだ。ハデスの戦いで皇帝側の軍を破ったのち、総主教ミカエル1世ケルラリオスが率いる首都の有力派の圧力で、ミカエル6世は8月30日に退位し、9月1日、イサキオスは聖ソフィア大聖堂で戴冠した。

即位時の東ローマは、コンスタンティノス9世の失政や内紛で財政が極度に悪化し、軍事力も弱まっていた。そこで彼は、財政の再建と軍備の増強、皇帝権力の強化を目指し、バシレイオス2世を手本とした断固たる統治を行った。その方針は、国庫を満たし、帝国を守るために軍の実効性を回復することにあった。支持者には報いる一方で、俸給の削減と厳しい徴税を行い、納めない者には容赦ない処罰を加え、歴代の皇帝が教会や貴族に譲り渡した土地を無効として没収した。皇帝権力は強まり、財政も持ち直したが、アナトリアの成り上がりの身であることから、首都の人々や貴族には粗野な田舎者と見下され、貴族や教会の反発を招いた。教会の収入を減らされて反発した総主教ケルラリオスを、1058年11月に逮捕したが、かえって反発は広がり、改革は行き詰まった。

東方の国境は守られ、1059年にはハンガリーと条約を結んで襲撃をやめさせ、その夏にはペチェネグ人を自ら討った。その直後、狩りで負った傷がもとで病に倒れ、命が危ぶまれた。元老院議長ミカエル・プセロス、弟ヨハネスや皇后らに説得されて退位し、元老院議員コンスタンティノス・ドゥーカスに譲位した。退位後は妻や娘とともに修道士となり、ストゥディオス修道院で没した。ヨハネスの子で甥のアレクシオス1世コムネノスは、のちに皇帝となってコムネノス朝を開いた。ローマ帝国の国章を、単頭の鷲から、故郷アナトリアの聖獣とされる双頭の鷲に改めさせたとの言い伝えもある。

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