HISTORICAL PERSON · 1077年没

アンドロニコス・ドゥーカス (ロマノス4世ディオゲネスの部下)

東ローマ帝国のプロトヴェスティアリオスで、ミカエル7世の従兄弟。1071年のマンジケルトの戦いで後衛を指揮して退却し非難された。翌年キリキアでロマノス4世を捕えたが、失明には反対したという。

生涯
1077年没
死亡地
—
出生地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アンドロニコス・ドゥーカスは、東ローマ帝国のドゥーカス家に属する軍人である。父はカエサルの称号を持つヨハネス・ドゥーカス、母はエイレーネー・ペゴンテイッサで、母方の祖父はニケタス・ペゴニテスであった。父は皇帝コンスタンティノス10世の兄弟にあたり、アンドロニコス自身も皇帝ミカエル7世の従兄弟である。妻には、ブルガリア皇帝イヴァン・ヴラディスラフの子トラヤンの娘マリアを迎えた。子にはミカエル、コンスタンティノス、ステファノス、ヨハネス、エイレーネー、アンナ、テオドラがいた。

1071年、アンドロニコスは皇帝ロマノス4世ディオゲネスに従い、アルプ・アルスラーンのセルジューク軍に対する遠征に加わった。マンジケルトの戦いでは帝国軍の後衛を指揮していたが、皇帝が倒れたと告げて戦場を離れ、ほかの部隊もそれに続いたとされる。帝国軍は大敗し、ロマノスは敵の捕虜となった。アンドロニコスの離脱は敗戦と皇帝捕縛を招いた行動として、広く非難された。その後、ロマノスはアルプ・アルスラーンと講和を結び、解放された。しかし首都では父ヨハネスらがロマノスの廃位を進め、ミカエル7世の単独統治を成立させていた。

1072年、アンドロニコスは兄弟のコンスタンティノスとともに、ミカエル7世と父の命令でロマノスを阻止するため出兵した。兄弟はかつての皇帝を破り、キリキアまで追い詰めた。最後にロマノスの降伏を取りつけたのがアンドロニコスであり、首都へ向けて護送したのも彼であった。ロマノスに敵対していたにもかかわらず、同年6月29日にその目をつぶす処置が行われることには反対したという。1073年の文書には、アンドロニコスがプロトプロエドロス、プロトヴェスティアリオス、メガス・ドメスティコスの称号を持っていたことが記されている。このうち軍職については、ロマノス討伐に際して授けられた東方のスコライ軍団長の職に当たるとされる。

1074年には、反乱を起こしたルーセル・ド・バイユールの傭兵軍を討つため、父とともに帝国軍を率いた。しかしゾンポス橋での戦いでは、ニケフォロス・ボタネイアテスの率いる後衛が離脱し、父子の軍は敗れた。二人とも反乱軍の捕虜となり、アンドロニコスは重傷を負った。治療のためコンスタンティノポリスへ戻ることを許されて釈放され、その後いったん健康を取り戻したが、1077年10月14日、浮腫によって死去した。翌1078年、娘のエイレーネーはアレクシオス・コムネノスと結婚した。息子ヨハネスはのちにデュラキオンの長官や海軍の大公を務め、アンナはゲオルギオス・パレオロゴスに嫁ぎ、テオドラは修道女となった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物