伝記
アルベール2世は、11世紀前半から中ごろにかけてのナミュール伯である。父はナミュール伯アルベール1世、母は下ロレーヌ公シャルルの娘エルメンガルドで、兄にロベール2世がいた。父アルベール1世は1011年より前に亡くなったとされ、まず兄ロベール2世が跡を継いだ。しかし兄は1018年以後の文書に現れなくなり、子のないまま没したため、アルベールがその後を継いでナミュール伯となった。兄の死の年は1018年から1031年のあいだとされるだけで正確にはわからず、アルベールが伯として文書に初めて現れるのは1031年である。
1010年から1015年のあいだに、アルベールはロレーヌ公ゴテロン1世の娘レジュリンドと結婚した。二人の間には、のちにナミュール伯を継ぐアルベール3世、デュルビュイ伯となるアンリ、そしてロレーヌ公ジェラールに嫁いだエドヴィージュが生まれた。アルベール3世の生年は1027年ごろとも1035年ごろともされ、1102年に没している。アンリは1097年にパレスチナで没したとも伝わる。
アルベール2世の事績としては、まず1037年の戦いがある。ブロワ伯でモーおよびトロワの伯でもあったウード2世は、ブルゴーニュ王ルドルフ3世の遺産を自分のものにしようとし、フランスとドイツのあいだに王国を築こうとしていた。この遺産は1032年に皇帝コンラート2世に移り、帝国に編入されていた。アルベールはバル・ル・デュクの戦いでこのウード2世と戦った。1046年には皇帝ハインリヒ3世の側に立ち、下ロレーヌ公ゴドフロワ3世やフランドル伯ボードゥアン5世との戦いに加わった。
1047年には、ナミュールのサン・トーバン教会を再建し、参事会を置いて参事会教会とした。この教会は1559年にナミュールの大聖堂となった。伝えによれば1061年には、この教会をめぐってリエージュ司教と争っている。
最後に文書に名が見えるのは1062年で、その翌年の記録は息子を指すのかもしれない。死去の状況は知られていない。没年は1063年ごろとされ、息子の治世第7年にあたる1070年の文書から割り出されたものである。なお没年を1064年や1067年とする説もある。跡は長男のアルベール3世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Constantine Leichoudes (1063年没)
- ベーラ1世 (ハンガリー王) (1063年没)
- ラミロ1世 (アラゴン王) (1063年没)
- Catherine of Bulgaria (1063年没)
- クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイール (1063年没)
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