伝記
ギルス・ゴドウィンソンは、11世紀のアングロ・サクソン系イングランド貴族である。ウェセックス伯ゴドウィンとその妻ギーサの息子の一人で、のちのイングランド王ハロルド2世の弟にあたる。生年は不詳で、1066年10月14日に没した。兄弟にはスヴェン、トスティ、レオフウィン、ウルフノスらがおり、姉妹にはエディスらがいた。出生順には不明な点が多いが、伯への昇進時期からレオフウィンより年長だった可能性が指摘されている。
1051年にゴドウィン家がイングランドから追放されると、ギルスは両親や兄弟のスヴェン、トスティらとともにフランドルへ渡り、翌年の夏まで亡命生活を送ってから帰国した。1053年に父がウィンチェスターで死去すると、ウェセックス伯領は兄ハロルドが継いだ。1057年にマーシア伯レオフリックが死に、息子エルフガーがその伯領を継ぐと、エルフガーが管轄していたイースト・アングリア伯領がギルスに与えられたとみられている。ただし当時の王室証書が残っておらず、正確な時期は確定できない。遅くとも1059年には伯として活動しており、同年の証書には、ハロルド、エルフガー、トスティに続いて名が見える。その権限はノーフォークとサフォークを中心に、オックスフォードシャーにも及んでいたとされる。
1061年、ギルスは兄トスティとともに、エドワード懺悔王がローマへ送った使節団に加わった。一行はザクセンとライン川上流域を通り、道中の聖所に参詣しながらローマへ向かったという。ギルスは同年の復活祭に開かれた教皇会議にも出席したとされる。ギルスとトスティは親密な関係だったようにみえるといわれ、ギルスがトスティの伯領内にあるケンプストンの大きな荘園を所有していたこともその根拠にされる。
1065年10月、トスティの統治に反発したノーサンブリア人が反乱を起こし、トスティを追放してモーカーを新たな伯に立てた。国王エドワードはハロルドを交渉に派遣した。この間にオックスフォードシャーがギルスの管轄に置かれた可能性があり、同年12月にはギルスが同地で伯として活動していた。翌1066年1月にエドワードが死に、ハロルドが王位に就く。9月には追放されていたトスティがノルウェー王ハーラル3世とともに北部へ侵攻したが、ハロルドは9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで両者を破った。ギルスもこの戦いでハロルドと行動をともにした可能性が指摘されている。ノルマンディー公ギヨームの上陸後、12世紀初頭の年代記作者オーデリックは次の逸話を伝える。ギルスは母ギーサらとともに、ハロルド自身が出陣するのを思いとどまらせようとした。ハロルドは北での戦いから戻ったばかりで疲れており、ギヨームへの誓約もある。自分は誓約をしていないので、兄に代わって戦うと申し出たという。ハロルドはこれを退けた。ただし校訂者は、この話を歴史的証拠というより特定の立場を弁護する論述のようだと評している。
1066年10月14日、ギルスはハロルド、レオフウィンとともにヘイスティングズの戦いで戦死した。『アングロサクソン年代記』は三兄弟の死を記し、バイユーのタペストリーにも、レオフウィンとギルスが倒れたとの銘文がある。一方、ある詩は、ギルスが槍を投げてギヨームの馬を傷つけ、のちにギヨーム自身に討たれたと語るが、これは戦いの歌から採られたか創作された可能性が高いとされる。征服直前のギルスは多数の所領を持ち、その年収入は約260ポンドと推計されている。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード懺悔王 (1066年没)
- ハーラル3世 (ノルウェー王) (1066年没)
- ムニアドナ・デ・カスティーリャ (1066年没)
- 蘇洵 (1066年没)
- エリザヴェータ・ヤロスラヴナ (1066年)
同じ地域に関係する人物
- デイヴィッド・マクスウェル・ファイフ (初代キルミュア伯爵) (1967年没)
- ジューン・アルメイダ (2007年没)
- ジョン・メイナード・ケインズ (1946年没)
- フランク・ブリッジ (1941年没)
- シリル・スコット (1970年没)