伝記
エドワード懺悔王は、1042年から1066年1月5日に没するまで在位したイングランド王で、ウェセックス朝最後の王である。生年は1003年から1005年の間とされる。エゼルレッド無思慮王と二人目の妃エマの最初の子で、異母兄が何人もおり、勅許状では常に彼らの後ろに置かれていることから、継承順位は低かったとみられる。実弟にアルフレッド・アシリングがいる。幼いころ、イングランドはデンマークの王スヴェン双叉髭王とその子クヌートの侵攻に苦しんでいた。1013年にスヴェンが王位を奪うと、エマはノルマンディーへ逃れ、エドワードと弟、そしてエゼルレッドもそれに続いた。1016年にクヌートがイングランド王となり、エドワードは弟や姉妹とともに再び亡命した。翌1017年、母エマはクヌートと再婚し、同じ年、クヌートは、生き残っていたエドワードの唯一の異母兄を処刑した。
亡命生活は25年ほどに及び、多くはノルマンディーで過ごしたとみられるが、1030年代初頭まで所在を示す証拠はない。深い敬虔さをこの時期に育んだと言われるが、現代の歴史家は、これを後世の列聖運動が生んだ像と考えている。1036年、エドワードは弟とともにイングランドへ渡った。弟アルフレッドは、ウェセックス伯ゴドウィンに捕らえられ、ハロルド兎足王のもとで眼を焼かれて盲目にされ、その傷がもとで間もなく没した。この事件が、エドワードがゴドウィンを深く憎む源になったとされる。1040年にハロルド兎足王が没すると、翌1041年、母を同じくする弟ハーデクヌーズ王がエドワードを呼び戻した。自らの命が長くないと悟り、後継者にする意図があったのであろう。1042年6月8日にハーデクヌーズが没すると、最も有力な伯だったゴドウィンがエドワードを支持し、エドワードは1043年4月3日の復活祭の日曜日にウィンチェスター大聖堂で戴冠した。
即位時の地位は弱かった。国を治めるには、マーシア伯レオフリク、ウェセックス伯ゴドウィン、シワードの三人の有力な伯と良好な関係を保つ必要があったからである。1043年11月には、母エマが王に属する財宝を保持していたとして、三人の伯とともにウィンチェスターへ赴いて彼女の財産を没収した。1045年1月23日にはゴドウィンの娘と結婚した。1050年から1051年にかけては、常備海軍の14隻を解散させ、そのための税も廃止した。一方、ノルウェー王マグヌス善王がイングランド王位を狙っていたので、1045年と1046年に侵攻を恐れて自らサンドウィッチで艦隊を指揮したが、1047年10月にマグヌスが亡くなり、脅威は去った。
1051年、エドワードはカンタベリー大司教にゴドウィンの親族が選ばれたのを拒み、ノルマンディーのジュミエージュ修道院長ロベールを任じた。その秋、ドーバーで義弟ウスタシュ2世の部下が起こした騒動をめぐり、市民を罰せよという王の命令をゴドウィンが拒んで対立が深まり、ゴドウィンは追放された。ところが1052年、ゴドウィン一族は亡命先から戻る。歴史家の一人は、この帰還が実質的な権力行使の終わりを意味し、以後、エドワードは国政から身を引いたと論じている。一方で別の伝記作家たちは、彼を精力的で機知に富み、ときに冷酷な成功した王とみる。子がないまま1066年に没すると、義弟ハロルド・ゴドウィンソンが跡を継いだが、同年のヘースティングズの戦いでノルマンディー公ウィリアムに敗れ、戦死した。エドワードは死後約1世紀の1161年に教皇アレクサンデル3世により列聖され、聖名祝日は10月13日である。
同じ年に亡くなった人物
- ムニアドナ・デ・カスティーリャ (1066年没)
- アフマド・バイハキー (1066年没)
- ゴットシャルク (1066年没)
- レオフウィン・ゴドウィンソン (1066年)
- ギルス・ゴドウィンソン (1066年没)
同じ地域に関係する人物
- チャートチャーイ・チュンハワン (1998年没)
- トーマス・アトウッド (作曲家) (1838年没)
- ルードウィッヒ・モンド (1909年没)
- ジョン・ヴェレカー (第6代ゴート子爵) (1946年没)
- ロイ・ドートリス (2017年没)