伝記
ステンキルは、11世紀のスウェーデン王である。在位は1060年から1066年で、ステンキル家最初の王にあたる。古ノルド語ではステインケルと呼ばれた。
出自には諸説ある。ユトランドの貴族の出身とする説明があり、エームンドの娘エンカリムと結婚したとされる。一方、ある物語は父を「老ラグンヴァルド」、母をノルウェーのハロガランの出のアストリッドとし、ハーラル美髪王の血を引くと語る。後の歴史家はその父を、スタラヤ・ラドガの代官ラグンヴァルドと同一視したが、この結びつけを裏付ける他の史料はなく、きわめて不確かとされる。同時代のブレーメンのアダムは、ステンキルを先王エームンドの甥または継子と記している。生まれはウップランドやメーラレン湖周辺よりも、ヴェステルイェートランドだった可能性が高いとされる。13世紀半ばごろの短い年代記は、王がレーヴェネに住み、「ほかのどの臣民よりもヴェステルイェートランドの人々を好んだ」と記す。もっとも、この結びつきは後世の事情から強調されたものかもしれないという指摘もある。
1060年ごろ、エームンドが嫡男を残さず死ぬと、ステンキルが争われることなく王位を継いだ。エームンドの子アヌンドはすでに亡くなっていた。アダムはステンキルを、きわめて敬虔で、キリストに忠実な神を畏れる王と評した。エームンドの治世にブレーメン大司教アーダルベルトの使節が追い払われたとき、ステンキルは涙を流して彼らを見送り、その祈りに身を託したという。のちにブレーメンとの関係は修復され、スウェーデンは新たな司教として老アーダルヴァルドを迎えた。他方、13世紀ごろのアイスランドの写本は、体が大きく足取りの重い、のんびり杯を傾けることを好む王として描き、あまり好意的でない。
王はスウェーデンのキリスト教化を支え、ブレーメン大司教区が任じた司教たちと協力した。王の使者の助けを借りて、若いアーダルヴァルドは古い異教の中心ウプサラから一日の道のりにあるシグトゥーナに司教座を設けた。ウプサラには、人と動物の血なまぐさい供犠が行われる有名な異教の神殿があったと伝えられる。司教たちは神殿を焼き払えば住民が改宗するだろうと考えたが、ステンキルは、住民が激しく反発して司教たちは処刑され、自分も王座を追われるだろうと説いて思いとどまらせた。実際、息子の老インゲは、異教の供犠をやめさせようとして追放されたと伝わる。司教たちは渋々従い、代わりにイェートの人々の土地を巡って異教の偶像を壊し、数千人を改宗させたという。治世は短く、ノルウェー王ハーラル3世とは武力衝突があった。ステンキルの子孫は、半世紀ほどスウェーデン王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ムニアドナ・デ・カスティーリャ (1066年没)
- 蘇洵 (1066年没)
- コナン2世 (ブルターニュ公) (1066年没)
- エドワード懺悔王 (1066年没)
- ゴットシャルク (1066年没)
同じ地域に関係する人物
- Georg Johansson (1996年没)
- ベネディクタ・ヴィーゼ (1199年没)
- Gote Hagstrom (2014年没)
- インゲビョルグ・エリクスドッティル (1357年没)
- Nils Karlsson (2012年没)