HISTORICAL PERSON · 1066年没

トスティ・ゴドウィンソン

11世紀のアングロサクソン人貴族でハロルド王の弟。1055年から10年ノーサンブリア伯を務めた。兄に追放され、ノルウェー王ハーラルの侵攻を支援し、1066年のスタンフォード・ブリッジの戦いで戦死した。

生涯
1066年没
死亡地
イギリス連邦(イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー / スタンフォード・ブリッジ)
出生地
—
出典
世界地図
イギリス連邦(イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー)

伝記

トスティ・ゴドウィンソンは、11世紀のアングロ・サクソン人貴族である。およそ1029年に生まれ、1066年9月25日に没した。有力貴族ゴドウィンとその妻の三男で、最後のアングロサクソン人のイングランド王となるハロルド・ゴドウィンソンの弟にあたる。1055年から1065年までノーサンブリア伯を務めたが、のちに追放され、ノルウェー王ハーラル苛烈王のイングランド侵攻を支援して戦死した。

1051年までに、トスティはフランドル伯ボードゥアン4世の娘ジュディスと結婚した。当時のフランドル伯ボードゥアン5世の異母妹にあたる。同年のドーヴァーでの衝突がこの婚礼の祝宴中に起きたと伝える記述もあり、結婚は一族の追放より前の春から夏にかけてだったとする説がある。この衝突は、ブローニュ伯ウスタシュ2世の従者とドーヴァー住民の争いが発端で、エドワード懺悔王から住民の処罰を命じられた父ゴドウィンがこれを拒み、両陣営が武力衝突寸前に至った。支持者が減ったゴドウィンは、息子たちとともに追放された。トスティは両親、スヴェン、ギルス、妻らとフランドルに渡って庇護を受け、ハロルドとレオフウィンはアイルランドへ逃れた。翌1052年、ゴドウィンが艦隊を率いて戻り、ハロルドの軍と合流してロンドンへ進むと、武力衝突は避けられて和解が成立し、トスティも帰国した。1053年の復活祭にはウィンチェスターの王宮に父や兄とともにおり、ゴドウィンは宴席で倒れて数日後に死んだ。

1055年初頭、長くノーサンブリアを治めたシワードが死ぬと、エドワード王は王国会議でその伯領をトスティに与えた。シワードの息子ウォルシオフは当時まだ若く、継がなかった。従来のノーサンブリア伯は、スカンディナヴィア系の人物や北部バンバラの伯家の一員が務めるのが通例で、ウェセックス系の人物が直接北部を治めた前例はなかった。シワードが現地の旧家と婚姻で結ばれていたのに対し、トスティにはそうした結びつきがなかったと指摘されている。この任命は、ゴドウィン家が南部と北部の二大伯領を握ることを意味し、レオフリック家に対するゴドウィン家の勝利でもあった可能性がある。

伯としてのトスティは、ダラムの教会との関係を築き、聖カスバートの共同体に寄進をした。妻ジュディスも寄進で知られ、金銀で覆われた磔刑像などを贈ったと伝わる。北のスコットランドの襲撃には、策略と武勇で応じて人質を得たという。1059年にはマルカム3世をエドワード王のもとへ案内し、会談で和平が成り、トスティとマルカムは誓約による兄弟となった。1061年にはヨーク大司教エアルドレッドのパリウム授与を求めるローマ行きに、ジュディスとともに同行した。一行は当初授与を拒まれ、帰路で盗賊に襲われて引き返し、のちにパリウムが授与された。この間にマルカムがノーサンブリアへ侵入したとされる。1063年には兄ハロルドが海から、トスティが陸から、ウェールズへの遠征を行った。

しかし遅くとも1064年から1065年には、北部の有力者との対立が深刻になった。抑圧的な統治と懲罰的な課税が嫌われ、有力従士の殺害が1065年の大規模な反乱と追放につながったと論じられている。反乱者たちは、トスティが神から奪い、人々の生命と土地を奪ったと非難した。追放されたトスティは1066年9月、ノルウェー王ハーラル3世とともに北部へ侵攻し、9月20日のフルフォードの戦いでエドウィンとモーカーを破った。だが、兄ハロルド王が率いる軍が9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで両者を破り、トスティはハーラルとともに戦死した。

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