伝記
ケカウメノスは、11世紀のビザンツの貴族で、『戦略書』の名でも知られる書物の著者である。ただし名前そのものが確実に伝わっているわけではない。書物の前半部分が写本から失われているため、著者の名は失われており、ケカウメノスという呼び名は、彼の父と祖父がその名であったことから推定されたものである。この書物は1075年から1078年ごろに書かれたとされ、著者について知られることのほとんどは、その本文に散らばる自身や家族への言及に限られる。
同時代の名将カタカロン・ケカウメノスと同一人物ではないかという説もあったが、具体的な証拠はなく、現在ではこの説は退けられている。本人について明示されている事柄は三つだけである。1041年にペトロス・デレアノスが率いたヴラフ人の反乱に対する遠征に加わったこと、その翌年に皇帝ミカエル5世が失脚する場面に居合わせたこと、そしてヘラス軍管区の長を務めたことである。
出自については、グルジア系もしくはアルメニア系の貴族の家に連なるとみられる。数世代前にコンスタンティノープルへ移り、ビザンツの上流社会に地位を得た一族だったという。書中で最も古い先祖として挙げられるのは、ドヴィンに当たるとされる町トビオンの領主である。この人物が帝国側に移り、有力なケカウメノス家の娘と結婚したと考える研究者もいる。その子である父方の祖父はヘラスの将軍となり、10世紀末ごろにテッサリアのラリサに住んだ。母方の祖父デメトリオス・ポレマルキオスは、帝国とブルガリア・ヴラフ人の王国が争っていたセルヴィアの町を攻略した人物とされ、平和が戻ると皇帝バシレイオス2世からパトリキオスの位と秘書官長の職を与えられたという。父はテッサリアのヴラフ人の有力家門ニクリツァ家と縁を結んだ。富裕だったが、税の徴収官を務めたのちに貧しさの中で生涯を終えたとされる。妻の父はニクリツァス・デルフィナスで、ラリサの領主として1066年のテッサリアにおけるヴラフ人の反乱に加わったと伝わる。子孫についてもよくわからないが、書物の助言が息子たちに宛てられていることから、息子がいたらしいと考えられている。
文章が素朴なため、彼は長く田舎の素朴な、さらには粗野な人物とみなされてきた。しかしその後の詳しい研究により、修辞学の基礎課程であるプロギュムナスマタの最初の段階までは修めていたと判断されるようになった。完全な課程を終えてはいないものの、実用的な文章を書くための言葉と技法は身につけていた。聖書、いくつかの歴史書、兵法書、格言集、教父たちの説教なども読んでいたらしい。教養がなかったわけでも、特別に高かったわけでもなく、当時のビザンツで読み書きのできた人々の平均かそれ以上の水準にあったと考えられている。
彼の書物『戦略書』、正確には『ある貴族の助言と物語』は、他の同時代の文献と違い、学者の文章を縛る修辞上の約束事から離れている。そのためビザンツ世界を飾らずに映す例のない史料として歴史家に重んじられ、多くの近代語に翻訳されている。軍事と家政を扱うこの書の中で、彼はヴラフ人を不誠実で規律のない民と呼び、その故地をドナウ川とサヴァ川の近くに置いた。ヴラフ人をダキア人やベッソイ人と結びつけて語る点も、当時の古風な書き方に沿ったものである。彼自身は重要な人物ではなかっただろうとされ、この書物以外に生きた痕跡はほとんど残っていない。
同じ年に亡くなった人物
- サーイド・アンダルスィー (1070年)
- ジェラール (ロレーヌ公) (1070年没)
- クシェメンドラ (1070年没)
- ボードゥアン6世 (フランドル伯) (1070年没)
- John Mauropous (1070年没)
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