伝記
ヨアンネス・マウロプスは、11世紀のビザンツ帝国に生きた聖職者であり、詩人、賛歌作者、そして書簡や演説の著者である。名の「マウロプス」は「黒い足」の意とされる。1000年ごろにパフラゴニアで生まれ、のちにコンスタンティノープルへ出て、まもなく教師として評判を得た。1028年ごろには自ら私塾を開き、プラトンに基づく高等教育を授けたといわれる。この学校にはミカエル・プセロス、ヨアンネス・クシフィリノス、コンスタンティノス・リクードスら当時の優れた知識人が通った。弟子の中で最も重要なのはプセロスである。
そのプセロスが、皇帝コンスタンティノス9世モノマコス(在位1042年~1055年)にマウロプスを引き合わせた。マウロプスは数年のあいだ、皇帝が周囲に集めた詩人や学者の恵まれた輪に加わり、宮廷の弁論家として働いた。1047年にはレオン・トルニキオスとその支持者を弁護するなど、皇帝の政策に影響を及ぼそうとしたとされる。この時期の演説は政治上の重要な出来事に関わるもので、修辞を政治的な影響力の道具として用いたことをうかがわせる。
ところが1050年ごろ、理由は不明ながらこの友人たちの集団は突然に寵を失った。マウロプスはこのときにエウカイタの首都大主教に任じられたと推測されている。彼は多くの書簡で、この任命を「名誉ある流刑」だと嘆き、友人のプセロスに頼んで、後の皇帝たちに都への召還を働きかけてもらおうとした。エウカイタでは宗教的な主題へと向かい、多数の聖歌の規範や聖人伝を書いた。とくに、エウカイタで祭りが営まれていた一介の兵士テオドロス・ティロンのような庶民の聖人を取り上げている。この願いは、生涯の終わりに近づいてかなったらしい。マウロプスは都に戻り、コンスタンティノープルのペトラの修道院に退いた。プセロスは彼のために賛辞を書いた。死んだ時期については、1070年代とも1080年代ともされ、1080年ごろとする説明もある。
彼は生前に自分の作品集を編んでいたらしく、ヴァティカン写本ギリシア語676番はその集成にきわめて近い写しだと考えられている。そこには99編の詩(警句詩、論争的な詩、自伝的な詩、韻文の追悼演説)、77通の書簡、そして大半が宗教的な内容の13編の演説が収められている。これらとは別に、膨大な数の典礼用の聖歌も作った。宗教的な敬虔さと古典の教養とが混じり合う点で、弟子のプセロスや、同時代の詩人ミティリニのクリストフォロスと通じ合い、11世紀半ばのビザンツに現れた新しい文化的な気風の先駆者とみなされてきた。プラトンやプルタルコスといった古代の著者が無神論だと非難されたときには、これを擁護したという。また詩や書簡には、公的な生活や政治的な経歴につきまとう浮き沈みと危険がしばしば主題となっており、当時の政治的・社会的な不安定を思えば不思議ではない。
後世に伝わった著作の校訂としては、1882年にラガルデとボリヒが出版した、ヴァティカン写本に基づく版が標準的な近代版とされる。1990年にはカルポジロスによる書簡の校訂と英訳が出た。また、コンスタンティノス9世のもとでコンスタンティノープルに法学校を設け、法の守護者の職を置くことを定めた11世紀中ごろの新法令は、マウロプスが起草し、皇帝が公布したものとされる。さらに、甥のテオドロスが彼のために作った聖務の式文も伝わっている。ミティリニのクリストフォロスが、この高慢なマウロプスをからかう作品を書いたことも研究で指摘されている。
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