伝記
曹仁は、中国の後漢末期から三国時代の武将で、字は子孝という。豫州沛国譙県の人で、曹操の従弟にあたる。祖父は曹褒、父は曹熾、弟に曹純がいる。騎兵を率いて各地を転戦し、のちには防衛の指揮官となって、晩年は大将軍、大司馬にまで昇った。168年に生まれ、223年5月6日(黄初4年3月19日)に56歳で没した。
若いころから武勇に優れ、弓術、馬術、狩猟を好んだ。群雄が各地に並び起ると、ひそかに若者千人余りを集めて淮水と泗水のあたりで暴れ回り、のちに曹操の配下に入った。193年には袁術や陶謙との戦いで騎兵を率いて先鋒を務め、194年からの呂布との戦いでは句陽を攻め落として部将を捕らえた。196年に曹操が献帝を迎えて許昌に都を置くと、しばしば功を立て広陽太守に任じられたが、曹操は勇気と智略を買い、赴任させずに騎兵隊を統率させたまま議郎とした。197年の張繡との戦いでは、曹操が撤退中に追撃を受けて敗れ軍の士気が落ちたとき、曹仁は将兵を励まして奮戦し、曹操を深く感嘆させて張繡を破った。
200年に曹操と袁紹が決戦したとき、袁紹側に就いた劉備が多くの県を寝返らせて曹操は不安になったが、曹仁は、劉備が率いているのは袁紹の兵で運用に慣れておらず、戦えば勝てると述べた。曹仁は騎兵で劉備を破り、離反した県をすべて奪回した。また鶏洛山で袁紹の部将韓猛を大破し、史渙らとともに袁紹の兵糧車を焼いた。205年に高幹が籠もる壺関を囲んだとき、曹操は敵を一人残らず穴埋めにせよと布令し、数か月たっても落とせなかった。曹仁は、城を囲むときは生きる道を開けておくものだと諫め、曹操が従うと敵は降伏した。曹仁は前後の功で都亭侯に封じられた。
208年、荊州の南郡で、曹仁は行征南将軍として江陵を守り、周瑜と戦った。部将の牛金が敵の先鋒に包囲されると、曹仁は陳矯の制止を振り切り、直属の勇士数十騎を連れて出城して敵陣に突入し、牛金を救い、取り残された兵も再び突入して救出した。陳矯らは「将軍は真に天人なり」と称賛し、三軍は心服した。曹操もその功績を評価し、安平亭侯に国替えした。戦いは一年余り続き、曹仁は周瑜に傷を負わせるなど善戦したが、結局は江陵を失った。のち樊城に駐屯して荊州を鎮守し、219年には関羽と戦った。漢水の氾濫で龐徳や于禁らの軍が水没し、関羽が樊城を囲んだとき、曹仁の手元には数千の人馬しか残っていなかったが、満寵とともに軍規を徹底して兵を鼓舞し、徐晃の援軍が来るまで守り切った。徐晃が外から関羽を攻めると、曹仁も城から出て攻撃し、関羽を撤退させた。
220年に曹丕が魏王になると、車騎将軍、陳侯となり、221年に大将軍、次いで大司馬に任命された。222年秋には歩兵と騎兵数万を率いて濡須に進軍したが、223年3月、朱桓を欺いて呉軍を分散させながらも、朱桓の本隊の奮戦で攻め切れず、別働隊の常雕が先に敗れたため撤退した。同月に病没し、忠侯と諡され、子の曹泰が後を継いだ。233年には、夏侯惇、程昱とともに曹操の廟庭に祭られた。若いころは乱暴者だったが、曹操に従うと行いを改め、法を厳格に守って信賞必罰を行い、諸将の見本になったとされる。曹丕が烏桓征伐に赴く曹彰に、曹仁を見習うよう忠告したのも、その例である。『傅子』は、その武勇は孟賁、夏育に匹敵すると評した。渡邉義浩は、曹魏を支えた名将で、夏侯氏と曹氏のなかで最も軍事的成功をおさめたと評価している。