伝記
藤原定家は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家で歌人である。藤原北家御子左流の正三位・藤原俊成の二男で、最終官位は正二位・権中納言。一一六六年に従五位下に叙され、一一七五年に流行していた赤斑瘡にかかったが、同じ年、父が右京大夫を辞したのに伴って侍従に任じられた。翌年、父が咳病の悪化で出家して後ろ盾を失い、一一七七年には疱瘡にかかって二度目の大病を経験した。以後は呼吸器の病にしばしば悩まされ、体が弱く、神経質で感情に激しやすい性格が現れたという。一一八一年に『初学百首』を詠んだ。翌年、父の命で作った『堀河院題百首』は、父母や諸歌人から賞賛され、右大臣九条兼実からも賛辞の手紙が届いた。
一一八五年の新嘗祭のさなか、殿上で少将の源雅行に嘲笑されたことに怒って、手にした脂燭で雅行の顔を殴り、勅勘を受けて除籍された。翌年、俊成が後白河法皇の側近に取りなしを頼み、法皇から赦免の返歌があったという。同じ年から、摂政九条兼実の九条家に家司として仕え始め、兼実の次男良経に親しく従い、兼実の弟慈円とも和歌を通じて交わった。兼実の庇護を受け、一一八九年に左近衛少将、一二〇〇年に正四位下へと順調に昇進した。一一九六年に反幕府派の源通親による政変で兼実が関白を罷免されると、義兄弟の西園寺公経らも出仕を止められ、定家も連座して除籍された可能性が指摘されている。
一二〇〇年ごろから、後鳥羽上皇が和歌に強い関心を示し始め、院初度御百首が企画された。通親は六条家の策謀を受けて定家を参加者から外したが、公経や俊成の運動で、ようやく参加を許された。一二〇一年の千五百番歌合にも詠進し、いずれも上皇に好まれた。同年、院宣を受けて源通具らとともに勅撰集の撰者となり、一二〇四年に『新古今和歌集』の名を上申した。定家の作は四十一首、のち追加の切り継ぎを経て四十七首が採られた。一二〇二年には源通親や後鳥羽の乳母の藤原兼子に任官を求める文を送り、兼子が病臥すると束帯姿で見舞うなど、権力者の機嫌を取って官職を得ようと心を砕いた。一二一〇年に内蔵頭となり、一二一一年に五十歳で従三位、公卿に列し、一二一四年には父が得られなかった参議にまでなった。ところが一二二〇年二月の内裏歌合に、官途への不満を託した歌を持参して上皇の逆鱗に触れ、勅勘を受けて和歌の公の場から退けられた。この謹慎の間に書写に励み、それが文化的な功績につながった。
一二二一年に承久の乱が起こると、上皇は流され、兼子も失脚し、定家にとっては幸運な時代となった。一二二二年に参議を辞して従二位、一二二七年に正二位に至った。七十歳を越えても官位への執着は衰えず、権中納言を望んで、一二三〇年には妻に日吉神社へ参籠させ、翌年には歩行困難な体で春日詣を行い、関白九条道家にも働きかけた。一二三二年正月、七十一歳で権中納言に任じられた。同年六月、後堀河天皇の命で『新勅撰和歌集』の撰出にかかったが、道家との間に何らかの対立があったらしく、十二月に罷免されて官界を退き、撰歌に専念した。一二三三年に出家して法名を明静と名乗った。一二三五年、承久の乱で処罰された後鳥羽上皇らの歌を削って集を完成させた。同じ年、宇都宮頼綱に請われて天智天皇から順徳院まで百人の歌人の歌を一首ずつ選び、これが『小倉百人一首』となった。
一二四一年八月二十日に亡くなった。八十歳だった。十八歳から七十四歳まで書き続けた日記『明月記』が残り、国宝に指定されている。気性が激しく、後鳥羽院から、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘された。「美の使徒」「美の鬼」「歌聖」などと呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- グレゴリウス9世 (ローマ教皇) (1241年没)
- Ludwig III of Wurttemberg (1241年)
- マヌエル・コムネノス・ドゥーカス (1241年没)
- スノッリ・ストゥルルソン (1241年没)
- エレノア・オブ・ブリタニー (1241年没)