伝記
ヘルマン1世・フォン・バーデンは、1040年ごろに生まれたツェーリンゲン家の公子で、のちのバーデン辺境伯家の始祖にあたる。父はケルンテン公ベルトルトで、母は最初の妃リヒヴァラであった。母はバーベンベルク家の公の娘だった可能性がある。弟にはツェーリンゲン公となるベルトルト2世と、コンスタンツ司教となるゲープハルト3世がいた。1061年に父がケルンテン公となると、ヘルマンはヴェローナ辺境伯の称号を受けた。ヴェローナ辺境伯領はイタリアにあり、当時はケルンテン公領に付随するものとみなされていた。しかし、ヘルマンがそこで実際に統治を行うことはできなかった。ブライスガウ伯としての権利も持っていたが、こちらはシュヴァーベンにおける一族の権益に由来した。
妻はユーディトといい、少なくともヘルマン2世という息子をもうけた。ユーディトは南西ドイツの貴族の出身で、ヴェルフ家に属していた可能性もあるが、その系譜は明らかでない。後に息子の妻となった同名の女性と混同されることもあった。叙任権闘争に結びつく内乱は、ツェーリンゲン家の祖地シュヴァーベンに大きな荒廃をもたらした。宗教生活にひかれていたヘルマンは、1073年に妻と別れ、クリュニー修道院へ退いた。そこで修道の誓いを立て、在俗修道士として生きることを選んだ。領主としての活動を離れたのちの生活は長く続かず、翌1074年4月25日または26日に同修道院で死去した。ヴェローナ辺境伯としては1061年から死去するまで数えられる。
死後、ヘルマンはカトリック教会で福者として崇敬され、4月25日が記念日となった。ヘルマン・フォン・ツェーリンゲンとも呼ばれる。一族では「ヘルマン」という名が長男に継承されたらしく、長男が死去した場合には次男がその名を引き継いだとも考えられる。息子ヘルマン2世はバーデン辺境伯を名乗った最初の人物となった。父ヘルマン1世自身はバーデン辺境伯の歴代には数えられないものの、家門で最初にヘルマンの名を持つ人物として区別される。ヴェローナに由来する辺境伯の称号は、子孫にも保持された。ユーディトは夫より長く生き、1091年に没したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アンリ・ド・ブルゴーニュ (1074年没)
- カーヴルト・ベグ (1074年没)
- Ibn al-Wafid (1074年没)
- アナスタシヤ・ヤロスラヴナ (1074年)
- Theodosius of Kyiv (1074年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲサリック (511年没)
- ガブリエル・ヴォアザン (1973年没)
- ユーグ1世 (ブルゴーニュ公) (1093年没)
- Thadee Cisowski (2005年没)
- クロード・ド・ラ・コロンビエール (1682年没)