伝記
ユーグ1世は、ブルゴーニュ公ロベール1世の孫として1056年ごろ、または1057年に生まれた。父はアンリ、母はシビーユ・ド・バルセロヌで、フランス王ロベール2世の曾孫に当たる。父アンリは、1059年に兄ユーグがヌヴェール伯ギヨーム1世との戦争で没した後、ブルゴーニュ公の継承者となった。しかし父も1070年から1074年の間に祖父より先に死去し、その長男であるユーグが後継者の立場に置かれた。母はバルセロナ伯ベレンゲル・ラモン1世とギスラ・ド・リュサの娘とされる。弟には、後に公位を継ぐウードや、ポルトガル伯となるアンリがいた。
1075年、ヌヴェール伯ギヨーム1世の娘シビーユと結婚したとされる。妻の名はヨランドともいわれ、この婚姻についても確定しない点がある。1076年に祖父ロベール1世が死去すると、ユーグは公国の継承を求めた。祖父が自分の息子ロベールへ公位を残そうとしていたともされるが、ユーグはディジョンに集まった家臣たちに権利を主張し、流血を伴う争いなしに公として認められた。反対した叔父ロベールとシモンを公国から追い出し、1076年から1079年まで統治した。反抗的な家臣に対して公正かつ毅然と対処したと評される一方、祖父の時代に独立性を強めていた家臣たちを完全に支配するには至らなかった。
1077年から1078年にかけて、アラゴン王サンチョ・ラミレスを助けるためイベリア半島へ軍を率いた。サンチョはナバラ王位にも就いており、遠征はサラゴサのイスラーム君主アル・ムクタディルを相手とした。この軍事行動の後、サラゴサはアラゴンに貢納するようになったとされる。妻シビーユは1078年までに没したと考えられる。同年2月19日のクリュニーへの寄進には弟ウードとロベールが署名したが、妻の署名はなかった。夫妻の間に子は知られず、ほかの子孫も確認されていない。
1079年、ユーグは弟ウードに公位を譲り、戦争の生活を離れてクリュニー修道院へ入った。戦いで負傷した後の入修であり、マコン伯ギーやアルボン伯ギーグ2世も同じ時期に修道生活へ入った。この選択は教皇グレゴリウス7世の批判を招いた。教皇は、公国内の平和を十分に確保しないまま地位を捨てれば、多くのキリスト教徒の命を危険にさらすと考えたのである。ユーグはベネディクト会の修道誓願を立て、後にクリュニーで副院長となった。1093年8月29日に同地で死去したとされるが、没日は8月20日とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- オーラヴ3世 (ノルウェー王) (1093年没)
- フセヴォロド1世 (1093年没)
- ベルト・ド・オランド (1093年没)
- マルカム3世 (スコットランド王) (1093年没)
- マーガレット・オブ・スコットランド (1093年没)
同じ地域に関係する人物
- アデル・ド・ノルマンディー (1137年没)
- ゲサリック (511年没)
- ボンヌ・ド・ブルボン (1402年没)
- ピエール・アベラール (1142年没)
- デオダ・ドゥ・ドロミュー (1801年没)