伝記
サミュエル・バトラーは、1835年12月4日にノッティンガムシャーのランガーの牧師館で生まれ、1902年6月18日に没したイギリスの小説家、批評家である。風刺的なユートピア小説『エレホン』(1872年)と、半自伝的小説『万人の道』で知られる。父は牧師のトーマス・バトラー、母はファニーで、祖父は同名の博士サミュエル・バトラーであった。祖父は商人の子から学識を認められてラグビー校とケンブリッジで頭角を現し、のちにシュルーズベリー・スクールの校長、さらにリッチフィールドの主教となった。一人息子のトーマスは海軍を志したが、父の圧力に屈して聖職者となり、祖父とは対照的に目立たない経歴を歩んだ。バトラーの伝記作者は、そのトーマスを「卑屈な息子だった埋め合わせに、暴君のような父になった」と評している。
バトラーと両親の関係、とくに父との関係は、おおむね敵対的であった。教育は家庭で始まり、頻繁な体罰を伴った。バトラーは後年、両親を生まれつき「残忍で愚か」だと書き、父は自分を好まず、自分も父を好まなかった、幼いころから父を恐れ嫌っていたと記した。父の期待どおり、聖職に就く道を歩むはずだった。12歳でシュルーズベリー・スクールに入ったが、校長ベンジャミン・ホール・ケネディのもとでの厳しい生活を好まず、校長は後に『万人の道』で「スキナー博士」として描かれた。1854年にケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジに入り、1858年に古典学で首席の成績を収めて卒業した。
卒業後、聖職に就く準備のため、1858年から翌年にかけてロンドンの貧しい教区で過ごした。そこで幼児洗礼が仲間の道徳や行動に何の違いも生まないことに気づき、信仰に疑問を抱き始めた。父との手紙のやりとりでも納得できず、かえって父の怒りを招いたため、1859年10月1日に船でニュージーランドへ向けて出発し、1860年1月27日に到着した。多くの裕福な出身の初期入植者と同様に、家族から距離を置くのが目的だった。メソポタミア牧場で牧羊業を営み、その様子を『カンタベリー入植地の最初の年』(1863年)に書いた。牧場を売って利益を得たが、この時期の最大の成果は、のちの代表作『エレホン』の草稿と素材であった。
1863年、ダーウィンの『種の起源』の4年後に、現地の新聞に「機械の間のダーウィン」と題する投書を筆名セラリウスで載せ、人間の進化を機械の進化になぞらえ、いずれ機械が地球の支配者として人間に取って代わると予言した。バトラーは、ダーウィンの自然選択説に反対する本を4冊書き、生涯にわたり進化論を批判した。ダーウィンが祖父エラズマス・ダーウィンの貢献を十分に認めていないとも考えた。1864年にイングランドへ戻り、クリフォーズ・イン(フリート・ストリート近く)に部屋を構え、生涯をそこで過ごした。1872年に匿名で発表した『エレホン』は、作者の推測を呼んで世に知られ、理想郷エレホンの名は「どこでもない」を意味する英語の綴りを入れ替えたものである。カナダの汽船会社やなめし剤会社への投資で損を出し、1874年にはカナダへ渡って会社を救おうとしたが、会社は倒産し、手元の資産は2,000ポンドに減った。『万人の道』は没後の1903年に発表され、オルダス・ハクスリーは自作『すばらしい新世界』が『エレホン』の影響を受けていると認めた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン (1902年没)
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- ヴィヴェーカーナンダ (1902年没)
同じ地域に関係する人物
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