伝記
アグネス・フォン・ポワトゥーは、1025年頃、アキテーヌ公ギヨーム5世と、その三番目の妻であるブルゴーニュのアニェスの娘として生まれた。1030年に父が死去すると、母はアンジュー伯ジョフロワ2世と再婚した。アグネスは初めアキテーヌで、のちに母方の叔父にあたるブルゴーニュ伯ルノー1世のもとで育った。ブザンソン滞在中にハインリヒ3世の目に留まり、1043年にその二番目の妻となった。この結婚には、アキテーヌの有力な家との結び付きを通じて、ハインリヒのフランスやブルゴーニュに対する立場を強める政治的な意味があった。同年マインツで王妃として戴冠し、インゲルハイムで婚姻を結んだ。
アグネスは教養と信仰心を備え、クリュニー修道院とも関係を持っていた。夫にクリュニー修道院長ユーグを引き合わせ、1050年に生まれた長男ハインリヒの洗礼代父にはユーグが選ばれた。夫婦の間にはこの長男のほか、アーデルハイト、ギーゼラ、マティルデ、コンラート、ユーディトが生まれた。1055年に幼い次男コンラートが死去すると、息子の持っていたバイエルン公位がアグネスに与えられた。翌1056年、イタリアから帰った夫が死去した。長男ハインリヒ4世はまだ六歳であり、アグネスは教皇ウィクトル2世の庇護のもとで摂政となった。
摂政としては諸侯との関係改善を進め、ゴットフリート3世にはロートリンゲンとトスカーナの領有権を認め、フランドル伯ボードゥアン5世父子にはエノー伯領の保有を安堵した。また、空席の司教職や修道院長職に有能な聖職者を任命した。他方、宮廷でミニステリアーレを重用したことは有力貴族の反感を招いた。1057年にはルドルフ・フォン・ラインフェルデンにシュヴァーベン公位を与えたが、先帝から同じ地位を約束されていたベルトルト・フォン・ツェーリンゲンが異議を唱えた。アグネスはベルトルトにケルンテン公位を約束し、1061年にその約束を実行した。同時に、自身のバイエルン公位をオットー・フォン・ノルトハイムへ譲った。これら三人の公は、のちにハインリヒ4世と対立することになる。
1061年、アレクサンデル2世の教皇選出に対し、ドイツ宮廷はホノリウス2世を推し、教会は分裂した。アグネスは政治から退くことを望むようになったが、宮廷内の権力争いは激しくなった。1062年4月、ケルン大司教アンノ2世がカイザースヴェルトでハインリヒ4世を拉致し、ケルンへ連れ去った。これをきっかけにアグネスは政治から退いた。その後イタリアで信仰生活に入り、フルツァリア修道院やローマに身を置いた。修道生活への移行は、拉致の直後ではなく1065年のローマ行きに伴ったともされる。
引退後も息子との連絡は続いた。1066年末には、教皇アレクサンデル2世のローマ遠征に関する要請を伝えるためドイツを訪れ、結果としてハインリヒは遠征を中止した。1072年には息子とシュヴァーベン公ルドルフの和解のために呼び戻され、内戦の回避に関わった。翌年にグレゴリウス7世が教皇となった後、息子と教皇の関係は悪化し、諸侯との対立も深まった。アグネスは1077年12月14日、ローマで死去した。
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