伝記
ブレーメンのアダムは、11世紀後半に活躍した中世ドイツで最も重要な年代記編者の一人である。最も有名な著書は『ハンブルク教会史』で、ハンブルク・ブレーメン大司教区と北方世界の歴史と地理を記した。生涯についてはその著作に比べてほとんど知られておらず、自身の著書に残された手がかりから推し量るほかない。出身地には定説がなく、ザクセンのマイセンの出身といわれる一方、ブレーメンの生まれでないことしか確かでないともいわれる。生没年も明らかではなく、おそらく1050年以前に生まれ、8月12日に没したとされる。ただし没した年ははっきりせず、おそらく1081年、遅くとも1085年とされる。ポルトガル語版の資料は没日を10月12日と記しており、食い違っている。
著書からは、アダムが多くの先行する著述家に親しんでいたことが分かる。「賢者アダム」(マギステル・アダム)という肩書きから、高度な教育課程をすべて修めたことがうかがわれ、マクデブルクの司教座聖堂付属神学校で学んだのではないかと推測されている。1066年か1067年に、ハンブルク大司教アダルベルトの招きでブレーメン大司教区に加わった。大司教は、アダムがこの大司教区の文学的な評価を高めてくれると確信していたという。アダムはブレーメンの教会参事会員に受け入れられ、1069年には大聖堂付属神学校の学校長となった。その後まもなく、ブレーメンとハンブルク、および北の島々、すなわち当時島と認識されていたスカンディナヴィア諸国の歴史を書き始めた。
当時のブレーメンは商業と交易の主要な都市で、商人や宣教師がここから各地へ旅立った。ハンブルクの大司教座は何度も攻撃を受けて破壊されたため、外敵からの保護を目的にブレーメンの大司教区と統合された。司教アンスガール以来300年にわたり、この大司教区は「北方布教の拠点」とされ、スカンディナヴィア、ロシア北西部、アイスランド、グリーンランドの布教活動すべての管轄権をもった。アダムは、自分の地位とブレーメン教会の布教活動のおかげで、ドイツ北部の歴史と地理に関する情報を集めることができた。デンマーク王スヴェン2世の宮廷に滞在した際には、デンマークやスカンディナヴィア諸国の歴史と地理の知識を集める機会を得た。
『ハンブルク教会史』は、大司教アダルベルトの死後に書き始められた。全4巻で、第1巻から第3巻は主に歴史、第4巻は地理を扱う。アダムはブレーメン教会の図書館の資料を自ら探し、アインハルトやカッシオドルスら過去の著述家の書を基にした。第1巻は北ヨーロッパへの伝道活動を扱い、788年以降はほかの書物に拠らないアダム自身の記述で、13世紀まで北ヨーロッパに関する知識の源であった。第2巻は940年から1045年のドイツの歴史も含み、第3巻は大司教アダルベルトの功績を書いて、中世の伝記文学における画期的な出来事とされる。第4巻『北欧諸島誌』は1075年ごろにほぼ完成し、スカンディナヴィアの民族や慣習を、現地の布教の進展と同じくらい詳しく記している。アダムは北ヨーロッパの改宗の支持者であり、この巻は宣教師を奮起させ、導く目的で書かれたらしい。初版は1075年か1076年に完成したが、アダムは1080年代までに没したため、改訂や加筆は行われなかった。この詳細な描写は、キリスト教化以前のスカンディナヴィアの重要な情報源となり、ウプサラの神殿の記述でも知られる。また、のちに北米ニューファンドランド島と同定されたヴィンランドに、ヨーロッパの記録で初めて触れた書としても知られている。
同じ年に亡くなった人物
- アーダルベルト2世 (バレンシュテット伯) (1080年)
- イースレイヴ・ギツラルソン (1080年没)
- ルドルフ・フォン・ラインフェルデン (1080年没)
- エルベール4世 (ヴェルマンドワ伯) (1080年没)
- ボレスワフ2世 (ポーランド王) (1080年代没)
同じ地域に関係する人物
- カール・ギュンター (1909年没)
- ユリウス・シュノル・フォン・カロルスフェルト (1872年没)
- カール・ライネッケ (1910年没)
- ゲオルク (ザクセン王) (1904年没)
- ウタ・フォン・バレンシュテット (1046年没)