伝記
ルドルフ・フォン・ラインフェルデンは1025年ごろ、シュヴァーベンの伯クーノの子として生まれた。ブルグント王家の傍系に属したとされ、ブルグント王ルドルフ2世やロートリンゲンの公家、ザクセン朝とも縁があった可能性がある。1048年の皇帝ハインリヒ3世の証書に、ライン川上流のシスガウを治める伯として名が現れる。一族の領地は黒い森のザンクト・ブラジエン修道院付近からアールガウに及んでいた。1057年、男子の後継者を残さずシュヴァーベン公オットー3世が死去すると、皇帝の寡婦で摂政のアグネスにより、新しい公とブルグントの管理者に任じられた。
公位を得る過程ではツェーリンゲン家のベルトルトと競合した。年代記作者フルトルフによれば、ルドルフは幼少のハインリヒ4世の姉妹マティルデをさらい、結婚を要求して認めさせたという。婚姻は1059年末に結ばれたが、マティルデは翌年に没した。ベルトルトはシュヴァーベンの代わりに、1061年にケルンテン公位を受けた。その後、サヴォイア伯オッドーネとアデライデの娘アーデルハイトと再婚した。再婚の年は1062年とも1066年ともいわれる。アーデルハイトの姉ベルトもハインリヒ4世の妃となり、ルドルフと王の姻戚関係は重ねて結ばれた。
ルドルフは当初、ハインリヒ4世に従っていた。王とザクセン貴族の対立から1073年に反乱が起きた際にも王を支持し、1075年のランゲンザルツァの戦いでは、反乱軍を破るうえで大きな役割を果たした。しかし勝利後に王から離れ、敵対する陰謀への関与が噂されるようになった。アグネスは繰り返し双方の仲裁に入った。1076年2月、叙任権闘争をめぐって教皇グレゴリウス7世がハインリヒを破門すると、ルドルフはケルンテン公ベルトルト、バイエルン公ヴェルフらとトレーブールに集まり、対応と新しい王の選出について協議した。
1077年1月、ハインリヒが教皇のもとへ向かう際、ルドルフはアルプスの道を閉ざそうとした。王はそれでもカノッサへ到達し、悔悛によって破門を解かれたが、反対勢力は選王の計画を続けた。3月15日、ルドルフはフォルヒハイムで対立王に選ばれ、聖職叙任における教会法と、王を選挙する原則を尊重すると約束した。5月25日にはマインツ大司教ジークフリート1世による戴冠を受けたものの、間もなく市民の反乱でザクセンへ逃れた。そこではオットー・フォン・ノルトハイムらの支持を得たが、故郷シュヴァーベンとの間にはハインリヒの領地が横たわり、教皇も明確な支持を避けた。
ルドルフはシュヴァーベンを息子ベルトルトに委ね、王軍との対抗を続けた。1079年にはハインリヒによって公位を剥奪され、シュタウフェン家のフリードリヒ1世が代わりに任じられた。1080年10月15日、エルスターの戦いでルドルフの軍は王軍を破ったが、自身は右手を失い、その傷によって死去した。息子ベルトルト1世は1090年までシュヴァーベンの対立公であったが、その生母は不明である。アーデルハイトとの間には早世したオットーと3人の娘がおり、娘たちはツェーリンゲン公ベルトルト2世、ハンガリー王ラースロー1世、ブレゲンツ伯の妻となった。
同じ年に亡くなった人物
- ブレーメンのアダム (1080年代没)
- イースレイヴ・ギツラルソン (1080年没)
- ハーラル3世 (デンマーク王) (1080年没)
- エルベール4世 (ヴェルマンドワ伯) (1080年没)
- アメデーオ2世・ディ・サヴォイア (1080年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ (1814年没)
- ヨハン1世 (ザクセン=ラウエンブルク公) (1285年没)
- ヴィルヘルム・ミュラー (1827年没)
- エドゥアルト・ハイネ (1881年没)
- ルドルフ1世 (ザクセン選帝侯) (1356年没)