伝記
アメデーオ2世・ディ・サヴォイアは、1048年から1050年ごろに生まれたモーリエンヌの伯である。サヴォイア伯、アオスタ伯とも呼ばれる。父はモーリエンヌ伯オッドーネ、母はスーザやイタリアの辺境領を継承したアデライデで、父母の次男にあたった。出生地は、一族の権力の中心であったモーリエンヌのシャルボニエール城とされる。兄はピエトロ、弟はのちにアスティ司教となったオッドーネであった。姉妹には皇帝と結婚したベルタと、シュヴァーベン公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンの妻となったアデライデがいた。母の名にちなんで、アデライデの息子を意味するアデラオという呼び名もあった。
父の領地と称号は、兄ピエトロとアメデーオの間で分けられたとされる。兄は母に由来するイタリア側の領地と侯爵の称号を受け継ぎ、アメデーオはブルグント王国内にある父方一族の領地と伯の称号を得たという。この場合、サヴォイアの伯領の相続人は兄ではなくアメデーオであったことになる。ただし、この時代の一族の称号や継承には明らかでない点がある。アメデーオは母の強い影響のもとにあり、生涯に二度ローマへ赴いたとされる。妻はジュネーヴ伯の娘ジョヴァンナと伝えられ、婚姻を1065年とする説もあるが、確実な結婚の経緯はわからない。子としては、後継者となったウンベルトが知られる。
教皇と皇帝の叙任権をめぐる対立の中で、母アデライデとアメデーオは両者の仲介にかかわったとされる。1077年、姻戚である皇帝がカノッサへ向かう際には、モン・スニの峠の通過を認め、その移動を助けたという。この交渉では、母子がイタリアの五つの司教区を求めたともいわれる。皇帝からはビュジェの譲渡や、母のイヴレーア侯領に対する権利の承認を得たとされるが、このときのアメデーオの行動には、兄ピエトロとの混同の可能性もある。1078年ごろに兄が男子を残さず死ぬと、その遺産は母が引き取った。アメデーオ自身も1080年ごろに死去し、1月26日を没日とする説がある。伯の地位は息子ウンベルト2世が継承した。
同じ年に亡くなった人物
- ハーラル3世 (デンマーク王) (1080年没)
- ボレスワフ2世 (ポーランド王) (1080年代没)
- イースレイヴ・ギツラルソン (1080年没)
- ブレーメンのアダム (1080年代没)
- ブロット=スヴェン (1080年代没)
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