HISTORICAL PERSON · 1083年没

オットー・フォン・ノルトハイム

ザクセンの貴族で、1061年から1070年までバイエルン大公。ハンガリーでシャラモンを支持してベーラ1世を敗死させ、後にハインリヒ4世と対立して反乱を起こし、ザクセン貴族の指導者の一人となった。

生涯
1083年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オットー・フォン・ノルトハイムは、1020年ごろに生まれたザクセンの貴族である。父はノルトハイム伯ベルンハルト、母はアイリカで、1049年ごろに父の伯位を継いだ。一族はライネ川、ヴェラ川、ヴェーザー川などの流域に広い所領を持ち、オットーもザクセンの有力貴族の一人となった。1061年、幼いローマ王ハインリヒ4世の母で摂政のアグネスからバイエルン大公位を与えられ、オットー2世と称した。しかし翌1062年には、ケルン大司教アンノらが王を誘拐して摂政権を握ったカイザースヴェルトの政変に加担した。

王の未成年期、オットーは王国の政務や軍事で重要な役割を担った。1063年にはハンガリーへ出兵し、ベーラ1世に追われたシャラモンの復位を助けた。この功績により、シャラモンの母アナスタシヤから、「アッティラの剣」とされるサーベルを贈られた。1064年には対立教皇ホノリウス2世の選出で生じた分裂を調整するためイタリアへ赴き、その後も王のためにアルプスを越えた。1065年、ハインリヒが親政を始めると、王領の回復と拡大を図る国王と、ハルツ山地南部などに所領を増やすオットーとの利害が衝突するようになった。1069年には、ドイツ東方のスラヴ人に対する二度の遠征に参加している。

1070年、エゲノ・フォン・コンラーツブルクから国王暗殺の陰謀に加わったと告発され、ゴスラーで告発者との決闘に応じるよう求められた。オットーは安全な往復を保証する通行証を求めたが認められず、出頭を拒否した。そのため追放を宣告され、バイエルン大公位と領地を失った。大公位は娘エテリンデと離婚した元女婿ヴェルフ1世に渡った。オットーはマグヌス・ビルングと結んで反乱を起こしたものの、1071年に降伏して拘束された。1072年には解放され、私領を返されたが、大公位は戻らなかった。1073年にザクセン貴族が蜂起すると、ヴォルムスレーベンに集まった貴族に決起を促す演説を行い、その指導者の一人となり、1074年の和約ではザクセン内の王の城を壊すことなどを認めさせた。バイエルンの返還も形式上は決められたが、現地の反対が強く、ヴェルフが実際の支配を続けた。

1075年の再蜂起にも加わったが、今度は王軍に敗れて再び降伏した。その後は国王に赦され、バイエルンを除く授封領を回復し、ザクセンの統治を任された。1076年にハインリヒが教皇グレゴリウス7世から破門されると、王とザクセン貴族の仲介を試みたものの、成功せず反対派に移った。1077年、バイエルン大公位の返還を約束され、対立王ルドルフ・フォン・ラインフェルデンを支持した。以後もハインリヒの軍と戦い、1080年にはルドルフとともにエルスター河畔で戦った。ルドルフが戦傷で死ぬと、翌年選ばれたヘルマン・フォン・ザルムを支えた。1083年1月11日に死去し、ノルトハイムのニコライ礼拝堂に葬られた。妻はヴェルル伯ヘルマン3世の未亡人リヒェンツァで、子にはハインリヒ、クーノ、ジークフリート、オットー、イダ、エテリンデ、マティルデらがいた。私領は後に、孫娘リヒェンツァと結婚したロタールへ受け継がれた。

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