HISTORICAL PERSON · 1083年没

曾鞏

北宋の散文家で唐宋八大家の一人。欧陽脩が主催した科挙に蘇軾・蘇轍と共に合格し、地方官として治績をあげた。古典籍の校訂に努め、現存する『戦国策』33篇本は彼が再校訂したもの。詩文集『元豊類藁』がある。

生涯
1083年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江西省 / 南豊県)
出典
世界地図
中華人民共和国(江西省)

伝記

曾鞏は、1019年9月30日に建昌軍南豊県の学者の家に生まれた北宋の散文家、歴史家、官僚である。字は子固で、父は曾易占、兄は曾曅、弟には曾牟、曾宰、曾布、曾肇がいた。幼くして学問の習得が早く、多くの書物を読み、12歳で『六論』を書いたといわれる。1037年、父が玉山県の長官に任命されると、18歳の曾鞏も同行した。滞在中は県内の奥地を広く巡り、紀行文『遊信州玉山小巌記』を執筆した。全五節からなり、最初に玉山の地理を記し、続いて洞窟や岩などを描いた。二十代には中国各地を旅した。1041年ごろ、遠縁の姻戚でもある王安石と直接知り合い、のちに欧陽脩へ推薦した。王安石との親しい交わりは生涯続いた。成人するころには同時代の人々に広く文章を認められ、欧陽脩もその文を読んで驚いたという。

1057年、欧陽脩が主催した科挙に、蘇軾、蘇轍の兄弟とともに合格した。太平州司法参軍に任じられ、翌年には中央へ召され、史館で書物や文書の整理、収集、編纂に携わった。編校史館書籍、館閣校勘、集賢校理、英宗実録検討官などを務めた。この時期の仕事には古典籍の校訂と保存もあり、現存する三十三篇本の『戦国策』は曾鞏が再校訂した本文に基づく。『戦国策目録の序』も典籍の整理に従事した時期の作である。古文運動を支えた主要な書き手で、知識人や文学者を導いていた欧陽脩の門人でもあった。文章については欧陽脩と同じく、六経に伝わる古代の聖賢から学ぶことを重んじた。華やかな表現よりも、堅実に議論を進め、構成を整え、簡潔で明瞭な言葉を用いる作風であった。儒家の原則を守る書き手でもあった。欧陽脩は多数の門人の中でも特に高く評価し、王安石や蘇軾もその文章を称賛した。

再び地方に出て、越州、通州の通判を務めた。越州では不公正な税制を発見して廃止し、飢饉の救済を組織した。1069年からは斉州、襄州、洪州、福州、明州、亳州などの知州を歴任した。斉州では集団的な犯罪や強盗、窃盗を取り締まり、厳罰と住民の相互警戒の仕組みを用いて治安を改善した。住民は夜も戸締まりを必要としなくなったとされる。斉州を去る時、住民が別れを惜しんで橋を壊し、門を閉じて引き留めたため、夜に乗じてようやく出発できたという。王安石と交友を保ち、弟の曾布が新法党の有力者となった一方、曾鞏自身は新法に批判的で、王安石に手紙を送り反省を促したこともあった。1080年、滄州への赴任途中に神宗へ拝謁すると、都に留められ、五代の歴史を編纂する仕事を与えられた。判三班院となった際には、国家の経費の増大を憂えて削減の必要を上奏した。1082年には中書舎人となり、翌1083年4月30日に江寧で没した。

曾鞏の著述には『元豊類藁』五十巻、『続元豊類藁』四十巻、『隆平集』三十巻があり、生涯に約四百首の詩も残した。散文では序跋や雑記に優れ、『墨池の記』『欧陽舎人に寄する書』などが代表作に数えられる。とりわけ書籍の解題には定評があり、その文章には道学の影響が強いとされる。後世には唐宋八大家の一人とされ、文定の諡を受けた。南宋の朱熹や明清の古文家たちに文章の技法が受け継がれた。清代の桐城派もその作風を評価し、姚鼐は、不得手なところをよく避けてそこへ踏み込まない書き手であると評した。

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