伝記
グレゴリウス7世は、ローマ教皇で、在位は1073年から1085年である。本名はイルデブランドといい、生年は1020年ごろとされる。グレゴリウス改革と呼ばれる一連の教会改革を進めて教皇権の向上に寄与し、叙任権闘争で神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と争ったことで知られる。カトリック教会の聖人で、記念日は5月25日である。
トスカーナ地方ソバーナの寒村に、貧しい農民の子として生まれた。勉学のため幼くしてローマへ送られ、伯父が院長をしていた聖マリア修道院に預けられた。長じて教皇グレゴリウス6世の側近となり、教皇が皇帝ハインリヒ3世との争いでローマを追われると、これに従ってドイツに赴き、ケルンで勉学を続けた。のちに教皇レオ9世に引き立てられてローマで働きはじめ、フランス派遣の使節として、トゥールのベレンガリウスの聖体に関する教説をめぐる論争の解決に当たった。その後も歴代の教皇に仕えて、ドイツ宮廷などに派遣され、ニコラウス2世とアレクサンデル2世の時代には、教皇庁の側近中の側近として活躍した。
1073年にアレクサンデル2世が没すると、イルデブランドが教皇に選ばれた。グレゴリウス7世を名乗り、まだ助祭だったため司祭に叙階されてから、6月30日に教皇位に就いた。当時、23歳のハインリヒ4世はドイツ諸侯の反乱で王位を脅かされていた。1074年5月にニュルンベルクで教皇使節に教皇への服従と教会改革への協力を約束したが、1075年にザクセン公を破ると約束を破り、ミラノなどで教皇に逆らって対立司教を立て、俗人による叙任を禁じた教皇に挑戦した。教皇は書簡でその違約を批判し、王位の剥奪までほのめかして警告した。
これに激昂したハインリヒ4世は、1076年1月24日にヴォルムスで教会会議を開き、教皇の廃位を決議した。教皇はハインリヒ4世の破門を宣言し、臣下の服従の誓いを解いた。この破門は大方の予想を裏切って大きな影響を示し、ハインリヒ4世に従うことを快く思わなかったドイツ諸侯は教皇への支持を表明し、民衆の間にも教皇への同情が強まった。諸侯は、破門から1年以内に謝罪と服従がなければ王位は空位とみなすと決めた。ハインリヒ4世は和解を求め、教皇がマントヴァに向かう途上に滞在していたカノッサに赴いて自ら謝罪した。これが「カノッサの屈辱」で、教皇は迷ったが、罪の赦しを乞う者を無視できず、破門を解いた。
しかし叙任権の問題は解決しなかった。ドイツ諸侯は1077年3月にシュヴァーベン大公ルドルフを対立王に立て、教皇は当初中立を標榜したが、1080年にルドルフが優位に立つと、3月7日にハインリヒ4世の破門と廃位を再び宣言した。今度は諸侯にも民衆にも支持されず、ハインリヒは6月にブリクセンで教会会議を開いて教皇の廃位を宣言させ、ラヴェンナ大司教グイベルトを対立教皇の候補に指名した。1081年にイタリアへ侵入してローマを囲み、1084年3月にグイベルトがクレメンス3世として教皇位に就いて、ハインリヒは改めてその手から王冠を受けた。教皇はサンタンジェロ城に追い込まれたが、ノルマン人の公ロベルト・イル・グイスカルドに救い出され、ローマを離れた。モンテ・カッシーノからサレルノに移り、1085年5月25日に同地で没した。
教皇がハインリヒと争った目的は領土や財産ではなく、世俗の君主が握っていた司教や大修道院長の任命権を教会の手に取り戻すことにあった。ヨーロッパ全域の王侯に書簡を送り、使節を派遣して教会の独立性を示し、教皇の権威を高めた。
同じ年に亡くなった人物
- ロベルト・イル・グイスカルド (1085年没)
- 神宗 (宋) (1085年没)
- 程顥 (1085年没)
- 郭煕 (1085年没)
- ダーニシュマンド・ガーズィー (1085年没)
同じ地域に関係する人物
- ガザのテオドロス (1475年没)
- グレゴリウス8世 (対立教皇) (1140年没)
- シリウス・イタリクス (101年没)
- マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ (1412年没)
- テーイア (553年没)