伝記
ロベルト・イル・グイスカルドは、ノルマン人の傭兵から身を起こし、南イタリアとシチリアの征服で知られる人物で、のちに中世シチリア王国を建てるオートヴィル家の首領である。1015年ごろに生まれ、1085年7月17日に没した。プーリア・カラブリア伯(1057年から1059年)、のちにプーリア・カラブリア公(1059年から1085年)となった。「グイスカルド」は「狡猾な人」を意味する呼び名で、英語では「抜け目のない」「ずる賢い」「狐」などとも訳される。フランス語名はロベール・ギスカールである。
ノルマン人タンクレード・ド・オートヴィルと、その2番目の妻フレセンダの子で、12人いた息子のうち6番目にあたる。ビザンツの歴史家アンナ・コムネナによれば、兄たちの後を追ってノルマンディーを出たとき、連れていたのは騎士5人と従者30人だけだった。1047年に南イタリアへ着くと、しばらくは山賊のような一団の頭目となった。兄たちはすでに1038年に到着して東ローマ支配下のプーリアの反乱に加わり、1042年にはメルフィを首都にプーリア伯を立てていた。1048年にカプア侯パンドゥルフ4世に加わってサレルノとの戦いに参加したが、翌年にそこを離れ、兄の宮廷に戻った。兄からカラブリアの城を与えられたが、これに満足せず、サン・マルコ・アルジェンターノの城に移った。この地でアルベラダと結婚した。1053年、教皇レオ9世が反ノルマン同盟を組んで挑んだチヴィターテの戦いは、ウンフレード率いるノルマン軍の勝利に終わった。ロベルトも自ら戦い、3度落馬しながら、そのたびに馬に乗り直したという。
1057年に兄ウンフレードが没すると、年長の異母兄ジェフリーを飛び越えてプーリア・カラブリア伯を継いだ。まもなく、おそらく1058年にアルベラダとの結婚は血縁を理由に解消され、その後、サレルノ侯家の出のシケルガイタと結婚して、ロンバルディア人との同盟を固めた。教皇庁は叙任権問題で神聖ローマ皇帝と争っており、ノルマン人を味方にする道を選んだ。1059年のメルフィ条約で、ロベルトは教皇ニコラウス2世に臣従を誓い、教皇からプーリア公・カラブリア公と、将来のシチリアの領主に封じられた。当時この地方には、なおサラセン人や東ローマ皇帝の領地が点在していた。
その後、弟ルッジェーロ1世の助けを得て、カラブリアとシチリアの征服を進めた。1061年、メッシーナを攻略中に、拠点のメルフィが東ローマ軍に囲まれたが、ロベルトは全軍を戻して奪い返した。1068年にジリ朝から送られた軍を破り、1076年までに南イタリアとシチリアの多くを征服した。1072年にはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプーリアとカラブリアを治めた。1081年に東ローマ帝国の征服をめざして、皇帝アレクシオス1世の軍を破り、コルフとアルバニアを占領したが、皇帝ハインリヒ4世にサンタンジェロ城を包囲された教皇グレゴリウス7世を救うため呼び戻された。ハインリヒが撤退したのち、1084年5月にローマに入って略奪を行った。その間に、ギリシアを占領していた息子ボエモンが占領地を失ったため、再び東ローマ遠征に向かったが、1085年7月17日に熱病で没した。
2度結婚し、息子は4人、娘は6人いる。最初の妻アルベラダとの子にボエモンがいて、第1回十字軍に参加し、アンティオキア公となった。二度目の妻との子には、プーリア・カラブリア公を継いだルッジェーロ・ボルサがいる。弟ルッジェーロ1世、甥のルッジェーロ2世は、のちに初代シチリア王となった。
同じ年に亡くなった人物
- アブル・マアーリー・ジュワイニー (1085年没)
- ヨアンネス・イタロス (1085年没)
- 程顥 (1085年没)
- 神宗 (宋) (1085年没)
- グレゴリウス7世 (ローマ教皇) (1085年没)
同じ地域に関係する人物
- エフスタシオス・コラファス (2000年没)
- ジョヴァンニ2世オルシーニ (1335年没)
- コンスタンティン・アクサーコフ (1860年没)
- ファン・デ・フカ (1602年没)
- アンドレアス・ヴェサリウス (1564年没)