伝記
リシルド・ド・エノーは、1018年ごろに生まれたエノー女伯で、夫や息子とともに伯領を治め、フランドル伯領の摂政も務めた。父はレニエ家のレニエ・ド・アスノン、母はアーデルハイト・フォン・エギスハイムであったとみられる。父はルーヴェン伯ランベール1世の孫に当たる。1040年にエノー伯エルマンと結婚し、ロジェと、名の伝わらない娘の二人をもうけた。
1047年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世に反乱を起こしたフランドル伯ボードゥアン5世に代わり、父レニエがヴァランシエンヌ辺境伯に任じられた。リシルドは1049年ごろに、父のただ一人の相続人としてこの領地を受け継いだ。さらに1050年または1051年に夫エルマンが死去したことで、エノー伯領の女子相続人となった。ヴァランシエンヌは自身の権利によって、エノーは夫からの継承によって保持することになった。しかし、この相続はフランドル伯家の介入を招いた。ボードゥアン5世は軍事的な威圧によって、リシルドを長男のボードゥアン6世と結婚させた。再婚した夫は妻の権利によってエノーを支配し、リシルドは夫とともに統治した。前夫との子二人は、義父ボードゥアン5世によって相続から除外された。エノーもヴァランシエンヌも帝国の封土だったが、皇帝はこの婚姻について相談を受けていなかった。そのため皇帝とボードゥアン5世の争いとなり、1054年にはフランドル側が敗れた。
二度目の結婚では、1055年ごろにアルヌール3世、1056年ごろにボードゥアン2世が生まれた。1067年、夫ボードゥアン6世が父の後を継いでフランドル伯となり、エノーとヴァランシエンヌにフランドルを合わせて統治した。夫は長男アルヌールにフランドルを、次男ボードゥアンにエノーを与え、一方が先に死んだ場合には、生き残った兄弟がその領地も継ぐように定めた。また弟ロベール1世には、忠誠と甥の保護を誓わせていた。
1070年7月17日に夫が死去すると、まだ若いアルヌールがフランドル伯となり、リシルドが摂政として政務を執った。ところがロベールは誓いを破り、甥のフランドル継承に挑んだ。リシルドはフランス王フィリップ1世の支援を得るとともに、1071年にはヘレフォード伯ウィリアム・フィッツオズバーンと三度目の結婚をし、助力を求めた。しかし同年のカッセルの戦いでリシルド側は敗北し、アルヌールとウィリアムはともに戦死した。アルヌールが死んだのは2月22日である。リシルド自身も捕らわれたが、その後釈放された。フィリップ1世はロベールの継娘ベルトと結婚し、ロベールをフランドル伯と認め、リシルドとその息子の側から離れた。
リシルドは次男ボードゥアン2世とともにエノーを保持した。フランドルを取り戻そうと何度も試み、エノーをリエージュ司教領の封土とする措置や、有力貴族の連合も組織したが、奪回には成功しなかった。ボーモンに城を築き、聖ヴェナンティウスに捧げる礼拝堂を設け、息子とはモンスのサン・ドニ修道院も創建した。1076年には、息子ボードゥアンによって統治の座から退けられたとみられる。摂政を退いた後はメシーヌ修道院に隠棲し、1086年3月15日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ヤロポルク・イジャスラヴィチ (1086年没)
- コンラート1世 (ルクセンブルク伯) (1086年没)
- クヌーズ4世 (デンマーク王) (1086年没)
- ギヨーム8世 (アキテーヌ公) (1086年没)
- 司馬光 (1086年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベール1世 (フランドル伯) (1093年没)
- ピエール・ド・ラ=リュー (1518年没)
- パトリック・セルキュ (2019年没)
- ポール・デルヴォー (1994年没)
- Felix de Muelenaere (1862年没)