HISTORICAL PERSON · 1093年没

ロベール1世 (フランドル伯)

フランドル伯(在位1071〜93年)。ボードゥアン5世の次男で、カッセルの戦いで甥アルヌール3世を破り伯位を得た。ホラント伯ディルク5世の摂政でフリース人伯と呼ばれ、フィリップ1世と講和した。

生涯
1093年没
死亡地
ベルギー王国(ウェスト=フランデレン州 / トルホウト)
出生地
—
出典
世界地図
ベルギー王国(ウェスト=フランデレン州)

伝記

ロベール1世は、1035年ごろに生まれたフランドル伯ボードゥアン5世とアデル・ド・フランスの次男で、「フリース人伯」と呼ばれた。兄はボードゥアン6世、姉はウィリアム征服王の妃マティルダである。1063年、ホラント伯の未亡人ゲルトルート・フォン・ザクセンと結婚した。この婚約は父の知らないところで結ばれたが、後に承認された。ゲルトルートとの間には6人の子をもうけた。継子ディルク5世の摂政としてホラントを治めたことが、フリース人という呼び名の由来とされる。1063年から1067年の間には、フランドルへの権利を放棄すると父に誓い、多額の補償を受けた。1069年または1070年にも、兄に対して同じ誓いを立てた。

兄が死去して甥アルヌール3世が継ぐと、ロベールは誓いを破って継承に異議を唱えた。ヘントなどで支持を集め、アルヌールの母リシルドと争った。リシルドを支えるフランス王フィリップ1世から出頭を命じられても従わず、戦争を続けた。1071年2月22日のカッセルの戦いでは、フランス王軍とその同盟者たちを破り、アルヌールは戦死した。ロベールはフランドル伯位を獲得したが、リシルドとその子ボードゥアンはエノーから抵抗を続けた。フィリップもサントメールを焼いて対抗したものの、最終的には講和し、ロベールの継娘ベルトを妃に迎えた。フランドルとフランスは、アングロ・ノルマン勢力を共通の脅威として、その後約20年にわたって友好を保った。

1075年には、征服王に対抗するエドガー・アシリングを受け入れ、デンマーク王スヴェン2世のイングランド遠征艦隊に港を使わせた。ホラントでもディルクの権利を守り続け、1076年に敵対者の下ロートリンゲン公ゴットフリートとユトレヒト司教ウィレムが相次いで死ぬと反撃した。イーセルモンデで敵を破り、後任のユトレヒト司教を捕らえたことで、失われていた領土の再征服が進んだ。教会とは対立もあり、テルアンヌ司教への介入を拒んだため、1077年ごろ教皇特使らに破門された。教皇グレゴリウス7世は破門を調べさせ、教会法に合わなければ解除するよう命じた。1078年か1079年には、父に反乱した征服王の息子ロベールも亡命して来た。

1080年、娘アデルをデンマーク王クヌーズ4世へ嫁がせた。1085年には婿とともにイングランドへの大規模な海上攻撃を計画した。征服王は傭兵を雇い、侵攻軍の補給を妨げるため沿岸を荒らすほど警戒したが、クヌーズの弟オーロフの反乱で延期され、王の暗殺によって実施されなかった。1086年には多くの護衛を伴ってエルサレムへ巡礼し、帰途に東ローマ帝国へ立ち寄って、皇帝アレクシオス1世のセルジューク朝との戦争を支援した。

1092年ごろ、ランスの地方評議会では、聖職者への賦課金に反発する教会人と争った。職務禁止命令を示して廃止を迫られると要求を受け入れ、すでに集めた金銀の宝物を返還した。同年、フィリップ1世がベルトと離縁してベルトラードを迎えたことで、王との友好にも亀裂が生じた。1093年10月13日に死去し、ゲルトルートとの子ロベール2世がフランドル伯を継いだ。

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