伝記
ドブロネガ・ウラジミロヴナは、マリヤとも呼ばれ、十一世紀のキエフ・ルーシからポーランド公カジミェシュ一世に嫁いだ公女である。一〇一〇年代に生まれたとされ、キエフ大公ウラジーミル一世の娘の一人とみなされている。ただし、父には複数の妻がおり、ドブロネガの母が誰であったかは明らかではない。ウラジーミルの娘のうちでも年少の一人だったとされ、姉妹の中で結婚が最も遅かったとも推測される。一方、ウラジーミルの息子ボリスの娘だったという説もある。父の最後の妻を、シュヴァーベン公となったクノの娘と結び付け、これをドブロネガの母と考える説もあるが、その系譜には議論が残る。
一〇四〇年前後、カジミェシュ一世との婚姻が結ばれた。婚儀を進めたのは、ドブロネガの兄弟とされるキエフ大公ヤロスラフ一世であった。夫はポーランドの支配権を取り戻そうとしており、それ以前の二度の試みには失敗していた。この婚姻は単なる両家の結び付きにとどまらず、カジミェシュの政権闘争を支援するためのものでもあった。ヤロスラフの援助を得て、夫はポーランドでの権力を回復した。こうしてドブロネガはポーランド公の妃となった。
夫妻には四人の息子と一人の娘が生まれた。長男ボレスワフは一〇四三年、次男ヴワディスワフは一〇四四年ごろの生まれである。ミェシュコは一〇四五年、オットーは一〇四六年ごろに生まれ、娘シフィエントスワヴァは一〇四八年ごろに生まれたとされる。オットーは一〇四八年に幼くして亡くなった。一〇五八年十一月二十八日には夫カジミェシュが死去し、ポーランドの統治は長男ボレスワフへ移った。一〇六二年ごろ、娘はボヘミア公ヴラチスラフ二世と結婚した。ミェシュコは一〇六五年一月二十八日に没している。
長男ボレスワフは一〇七六年にポーランド王となったが、一〇七九年には地位を追われ、国外へ退いた。のちにポーランド公となったのは次男ヴワディスワフである。ボレスワフは一〇八一年または一〇八二年に死去し、ドブロネガは長男より五、六年長く生きた。娘の夫ヴラチスラフも一〇八五年には王となった。ドブロネガ自身は一〇八七年に没したとされ、十二月十三日を没日とする説がある。
同じ年に亡くなった人物
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