伝記
ヴャチェスラフ1世は、1083年ごろに生まれ、1154年末か1155年初めに没したキエフ大公である。ヴャチェスラフ・ウラジミロヴィチともいい、父はウラジーミル・モノマフ、母はウェセックスのギータで、モノマフの五男とされる。若いころから公たちの争いに加わり、1096年から1097年の争いにも参加した。唯一の息子ミハイルは1129年に亡くなった。1113年にスモレンスク公となり、その3年ほど後、モノマフは娘婿であるギリシアの皇子レオンのことで、ヴャチェスラフを将軍トマ・ラチボロヴィチとともに、皇帝アレクシオス1世のドナウ川沿いの都市へ差し向けた。1125年(1127年ともいう)に兄ムスチスラフがキエフ大公となると、ヴャチェスラフはスモレンスク公の座を譲り、トゥーロフへ移った。ムスチスラフが息子ロスチスラフをスモレンスク公にしたためともいわれる。
1132年、別の兄ヤロポルクによってペレヤスラヴリ公となったが、もとの領地が恋しくなり、1134年に独断でトゥーロフへ帰って甥のイジャスラフを追い出し、自分がそこに座った。その結果、オレグ一門の援助を受けた甥との争いが始まった。1139年2月18日にキエフ大公ヤロポルクが没すると、ヴャチェスラフは弟として大公位を継いだ。しかし性格や行動に欠点があったとされ、最初の在位はわずか数日で終わり、3月にオレグ一門のチェルニゴフ公フセヴォロドに追われてトゥーロフへ退いた。その後、1142年にペレヤスラヴリ公、1143年にふたたびトゥーロフ公となった。
1146年にフセヴォロドが没すると、モノマフ一門の最年長者であるヴャチェスラフは政治への積極的な干渉を試み、甥ウラジーミル(異母弟アンドレイの子)をヴォルィーニ公にしようと画策した。しかし新しいキエフ大公には甥のイジャスラフが就き、トゥーロフもヴォルィーニもイジャスラフのものとなって、ヴャチェスラフにはヴォルィーニの小都市ペレソプニツァが与えられた。彼は異母弟のユーリー・ドルゴルーキーと連合する道を選び、1149年に連合軍はイジャスラフを破った。ヴャチェスラフはユーリーから、小さいがキエフ近郊の戦略上重要な都市ヴィシゴロドを得た。
1150年、イジャスラフの反撃でユーリーが敗れると、ヴャチェスラフはキエフに入り、一時的に大公となった。しかしそれまで敵だったイジャスラフと和解して大公位を譲り、今度は同盟者だったユーリーと戦いを始めた。3人によるキエフ大公位を巡る争いは、1151年にイジャスラフがユーリーに勝って決着した。イジャスラフはヴャチェスラフを呼び寄せ、二人の共同統治が行われた。これが3度目のキエフ大公位で、イジャスラフがヴャチェスラフの名のもとで治めたともいわれる。1154年にイジャスラフが没すると、老いたヴャチェスラフは別の甥、スモレンスク公ロスチスラフを共同統治者に迎えた。ユーリーがキエフを攻める準備をしていたとき、ロスチスラフはこれを迎え撃ちに出ており、その間にヴャチェスラフは突然亡くなった。聖ソフィア大聖堂に葬られ、キエフ市民はその後、ダヴィド一門のイジャスラフに大公位を差し出そうとしたという。
同じ年に亡くなった人物
- ギルベルト・デ・ラ・ポリー (1154年没)
- イサキオス・コムネノス (アレクシオス1世の子) (1154年)
- ルッジェーロ2世 (1154年没)
- ザーフィル (1154年)
- アナスタシウス4世 (ローマ教皇) (1154年没)
同じ地域に関係する人物
- オレグ・ダール (1981年没)
- スヴャトポルク2世 (1113年没)
- ファビアン・ゴットリープ・フォン・デア・オステン=ザッケン (1837年没)
- ユーリ・ヤノフスキー (1954年没)
- ヘンナディー・ウドベンコ (2013年没)